。これからは、もう春枝には構わないで貰いましょう。」
ウイスキーのせいばかりではなさそうだった。春枝を誘い出そうとしたことを、村井は知ってるに違いなかった。
それでも、大五郎はたじろがなかった。なにか鈍重な酔いかたで、そしてちょっと浮いた気分で、彼方に立っている春枝の方を、明らさまに振向いて眺めた。若々しいきゃしゃな身体つき、ういういしい尖った※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]、捉え難い黒目、それらがぼやっとぼやけて、割烹着の花模様の青と黄と赤とがちらちらした。その色合の上に、あの、威勢のいい肉附豊かなお上さんの、小紋錦紗のはでな姿が重ってきた。彼女なら、東京者という金箔をつけて、奉天の店を繁昌させるだろうと、想念がちらと掠め去ったが、あとはただ白々しい空虚が残った。
大五郎は首を垂れた。そこに、餉台の上に、村井の大きな握り拳があった。ばかに力がありそうな大きな拳だ。
「ほほう、大きな拳ですな。ムッソリーニの拳に似てますな。」
村井は手を引っこめて、掛時計を仰ぎ見た。
「もうそろそろ時間ですよ。だいぶ酔いましたね。」
それから、低いそして強い声で囁くようにいった。
「あまり度々、この近所を荒し廻らないがいいですよ。飲むなら、銀座あたりに出かけたらどうですかね。」
大五郎はふらふらと立上った。ゆっくりと丁寧に靴の紐を結んだ。会社員らしい一人の客と春枝と、くすくす笑いあっていた。その方を、大五郎はつっ立ってじっと見たが、黙って表へ出て行った。
彼の頭に、また大きな犬の姿が浮んだ。浮んでは消え、消えてはまた浮んだ。彼はその姿を追っかけて、胸の中で、声には出さないで、犬の吠え声をまねた。ふらふらした足取りが、その吠え声に調子を合せた。
電車通りを、宿泊してる親戚の家の方へ辿っていると、薄暗い並木の蔭に、小さな男の姿が立っていた。彼はその小男の姿と向きあって立止り、じっと睥めくらをしてるうち、ふしぎな憤りを感じて、拳をかため一撃した。
乗合バスの標柱が音を立てて転った。
彼はその音を耳にしなかった。相手を打倒したはずみに、よろけて、並木にもたれかかったが、そのままずるずると身体をずらして、そこに屈みこんだ。そして軽い鼾の音を立てた。
すさまじい轟音に、彼は眼を開いた。轟音とは似もつかず、玩具のような電車が彼方へ走っていた。彼はなにか腑におちぬらし
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