ません。払いをしないで引越してゆくのを、許して下さい。私には何処からも金のはいる当がないんです。父も母もいないんです。ただ月々十五円ずつ、或る人から補助を受けてるだけです。家庭教師でもして働け、と云ってくれる者もよくありますが、そんな下らないことに、大切な能力を費したくないんです。私は専心に、読書と思索とに日を送ってきました。この前の下宿から追い出される時、書物を取上げられてしまったのが、実に残念でした。然し仕方ありません。一生懸命に勉強します。私一人を食わしてくれるくらいの余裕は、日本の社会にもあることと思っています。それだけの恩は、いつか社会に報いてやるつもりです。十倍も百倍もにして返してやるつもりです。そう思うと愉快です。けれど、実は今日引越すと云っても、行く先がないんです。正式の下宿屋は、何軒も食い逃げした揚句で、偽名でもしなければ置いてくれません。偽名するのはこの上もない屈辱です。それで、私は月々補助してくれる人の所へ、押しかけていってみるつもりです。もし後でその人が何か聞きに来ましたら、ありのままを答えて下さい。或は金を払ってくれるかも知れません、それも当にはなりません。御迷惑をかけて済みませんが、許して下さい。それから、俥を二台お頼みします。俥代くらいは持っています。私は御宅から出て行くのが、どんなに悲しいか分りません。いろんな打算をぬきにして、ただ純粋な感情から、悲しくて堪らないんです。私はいつまでも、あなたと澄子さんのことは忘れません。私のこともどうか覚えていて下さい。あなたの生きているうちには。立派な者に、たとえ世の中に名前は出なくとも、人間として立派なものになってお目にかけます。私は感謝の念で一杯です。」そして彼はまた歯をくいしばった。「でも長くいては悪いことになりそうです。すぐに引越します。何もかも許して下さい。すぐに引越します。」
 今井はぷつりと言葉を切って、一つ丁寧にお辞儀をして、慌しく二階に上っていった。
 辰代はまじろぎもしないで、彼の言葉を聞いていたが、彼からお辞儀されると、やはり丁寧にお辞儀をした。その頭を挙げた時には、彼はもう二階の階段を二三段上りかけていた。彼女は一寸眼を見据えて、それから立上って、彼の後を追ってゆこうとした。その時、縁側の柱の影から、仔細の様子を窺っていた中村が、飛んで出て彼女を捉えた。
「お止しなさい。」
 きつい調子でそう云われて、辰代は面喰ったように眼をきょろつかせた。そして何とも云わないで、奥の室に逃げ込んでいった。
 暫くして、澄子がそっと覗いてみると、辰代は薄暗い電燈の下で箪笥にぐったりよりかかって、涙が頬に流れるのも自ら知らないらしく、寝間着の薄い襟に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を埋めて、深く考えに沈み込んでいた。澄子は喫驚して、中村の所に戻ってきた。
「お母さんは、泣いてるのよ。」
「放っとくがいいよ、お母さんも今井さんも、揃いも揃って狂人《きちがい》ばかりだ。」と中村は云って、何故か首を振った。「まあいいさ。これをきっかけに、今井さんに出ていって貰わないと、どんなことになるか分らない。そうなったら、澄ちゃん一人が困るじゃないか。」
「そりゃ困るわ。」
「だから、皆の気が変らないうちに、早く俥を呼んでおいでよ。」
「そうしましょうか。」と澄子はまだ思い惑った調子で云った。
「そして、お母さんには何とも云っちゃいけないよ。」
「ええ。」
 澄子は大急ぎで着物を代え髪を一寸なでつけて、俥屋へ駈け出していった。その俥がまだ来ないうちから、今井は来た時と同じ三個の荷物を、一人で玄関に並べてしまった。そして挨拶もしないで、荷物を積んだ俥の後の俥にのって、朝靄のかけてる通りを、石のように固くなりながら去っていった。
 中村と澄子とがぼんやりその姿を見送った。辰代はまだつくねんと奥の室の隅に黙り込んで、顔をも出さなかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年4月27日作成
2008年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全9ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング