だから、いつのまにかけろりとなおって、一寸した心の持ちようで、人一倍親しくならないとも限らないよ。」
「でも、私今井さんが何だか恐くなってきたの。」
「澄ちゃん!」と中村は云って、じっと彼女の顔を眺めた。「澄ちゃんは、今井さんを、好き? 嫌い? どちらなんだい。」
「好きでも嫌いでも……どちらでもないわ。」
「それじゃあ何も恐がることはないよ。恐い恐いと思ってると、しまいにはもう動きがとれないほど、好きで好きでたまらなくなるかも知れない。」
 冗談かと思って澄子は、返辞に迷って中村の眼を見たが、その真剣な眼付に心を打たれた。
「恐がってはいけないよ。」と中村はまた云った。「平気でいさえすれば大丈夫だ。」
 そうかも知れないと思う気持と、しっかりした柱を見出した気持とで、澄子は両手の中に、任せられた中村の片手を握りしめながら、彼の膝に寄りかかっていった。
「でも……万一のことがあったら、あなた助けて下さるわね。」
「ああ、安心しておいでよ。」
 片手をそっと背中にかけられて、憐れむような笑顔で覗き込まれると、澄子はほっと溜息をついて、その溜息と一緒に、頭の中のもやもやを吐き出してしまった。そしてその晩、安らかに眠ることが出来た。
 けれども、その翌日から澄子は、今井に対していくら平気でいようとしても、それがなかなか出来なかった。今井は辰代から云われた言葉を気にも止めていないらしく、今迄通り落付いていて、ただ辰代と中村とに対しては、一言の挨拶もせず見向きもしなかったが、澄子と顔を合せると、丁寧にお辞儀をするのだった。澄子はどうしていいか分らなかった。彼女には何もかも変梃に思われた。母があれきり何とも云わないで、而も三度三度の食事の膳を、自分で今井の所へ運んでゆくのも、また中村が始終笑顔をして、今井の姿を見送るのも、また今井がこれまで通りに、長い間|階下《した》の縁側に屈んでいたり、金魚の水を代えてやったりするのも、凡てが変梃に思われた。そして、茶の間の晩の雑談に、今井が決して加わらなくなったのだけが、はっきり彼女の腑に落ちたけれど、その楽しい雑談に於ても、母と中村とが妙に黙り込むことが多くて、何だか互に腹をでも立ててるかのようなのが、やはり彼女には合点ゆかなかった。何もかも調子が狂ってきた、とそういう気がした。
 そして最もいけないのは、澄子の様子をじっと窺ってる今井の眼だった。澄子はその眼を、あらゆることのうちに感じた。
 彼はこれまで、朝顔を洗うのに、ただ水でじゃぶじゃぶやるだけだったが、或る朝澄子が喫驚したことには、彼女がいつも使うクラブ洗粉を、いつのまにか買ってきて、それで念入りに洗っていた。髯を剃った後には、彼女が用ゆるのと同じホーカー液を、女らしい手附でぬっていた。――彼はいつも朝寝坊だったが、俄に早起になってきて、澄子が学校に行く前に髪を結ってると、少し離れた所に屈み込んで、あかずに眺め入ることが多かった。「澄子さんの髪は綺麗だなあ、」と彼はよく独語の調子で呟いた。――或る時彼は、縁側に屈みこんで、しきりに足の指をいじくっていた。何をしてるのかと思って、澄子がそっと覗いてみると、彼はひょいと振返った。その視線が、彼女の素足の親指に来た。「澄子さんの足の指は、どうしてそうまむしが出来るんです?」その言葉に喫驚して彼女は、力を入れた足の親指に眼を落すと、今迄自分でも気付かなかったが、小さな爪が深く喰い込んでる子供らしい指の間接[#「間接」はママ]に、くりくりしたまむしが出来ていた。
 そういうことのうちに、それからまだいろんな些細なことのうちに、澄子は自分を見つめてる今井の眼を感じた。そしてその眼が、四方から自分の身辺に迫ってくるような気がした。殊に或る日、彼女は台所で一寸母の手伝いをして、其処から出ると、縁側に今井が立っていた。彼女が学校から帰ってきて、脱ぎすてたまま室の隅に片寄せておいた袴を、後ろ前も前と一緒に持ち添えて、それを帯の所にあてがいながら、しきりに首をひねって考えていた。その様子が変に滑稽でまた真面目だった。澄子は思わず放笑《ふきだ》そうとしたが、喉がぎくりとしてつかえてしまった。それからどうしていいか分らなくなった。いきなり台所へ駈け戻って、「お母さん、玄関にどなたかいらしたようよ、」と大きな声で叫び立てた。そして手を拭き拭き出て行く母の後ろから、自分もそっとついて行った。見ると、今井は袴を投り出して、素知らぬ顔でつっ立っていた。彼女はほっと安堵して、彼の方をちらと見やりながら、袴を取ってきて、丁寧にたたんで箪笥の上にのせた。
 それまではまだよかったが、やがて、もうどうにも出来ないことが起った。
 夕方から風がぱったりと止んだ、いやに蒸し暑い晩だった。真夜中に、澄子はふと眼を覚した。物に慴えて息苦しいような、変な心地がしたので、寝呆け眼であたりを見廻すと、古い十燭の電燈に覆いをした、影を含んでるぼやけた光が、薄すらと流れ出してる次の玄関の室に、物の動いてる気配《けはい》がした。おやと思って、蚊帳越しに眸を定めてみると、薄青の地に白菊くずしの模様のあるメリンスの着物が、室の真中にぶら下っていた。そんな筈はない、と思うとたんに眼が冴えた。長い髪の毛を乱した今井が、横顔をこちらにして、彼女の平常着《ふだんぎ》を引っかけ、襟を合したその両手を、そのまま胸に押しあてて、歩いてみようか坐ってみようかと思い惑った形で、なおじっと立ちつくしてるのだった。それと分った瞬間に、澄子はぶるぶると身体が震えて、何を考える隙もなく、母の方へ手探りに匐い寄って、力一杯に揺り起した。
「お母さん、お母さん、今井さんが……。」
 出すつもりの声が出なかったのか、辰代はきょとんとした眼で見廻したが、澄子に指さされるまでもなく、今井の姿がちらりと動いて、半ば立て切ってある襖の影に、はいってしまおうとしかけた時、彼女はがばとはね起きて、次の室に飛び出していった。
「今井さんじゃございませんか。」
 澄子の着物の中で、今井は棒のように立竦んだ。
「何をなすっていらっしゃるのです?」
 見据えられた眼付を、身体を固めてはね返していたが、やがて今井はふわりと女着物を脱ぎすて、棒縞の寝間着一つになって、押し伏せられるように其処に坐った。辰代は澄子の着物を、片手を差伸して引寄せ、それから前腕に抱え取った。その威猛高な立像の前に、今井は頭を垂れて、一語一語に力をこめながら云った。
「私はお願いがあります。澄子さんを……私に下さいませんか、私と結婚を許して下さいませんか。一生、命にかけても、私は澄子さんを愛してゆきます。許して下さい。一生のお願いです。」
 辰代はぶるぶると身を震わして、なお一寸つっ立っていたが、くるりと向き返って縁側に出で、さも忌々しいといったように、澄子の着物を打ちはたき、それを奥の室の隅に投げやり、玄関の室との間の襖を、手荒く閉め切っておいて、また蚊帳の中にはいって来た。そして、布団の上に坐ってる澄子へ、叱りつけるように云った。
「早く寝ておしまいなさい!」
 澄子は驚いて布団の中にもぐり込んだ。母が今井の言葉に対して一言も云い返さなかったのが、異常な恐ろしいことのような気がした。母が息をつめて歯をくいしばってる様子まで、まざまざと見えてきた。しいんと静まり返った中に、一刻一刻が非常なもどかしさでたっていった。澄子は堪《こら》えきれなくなって、おずおず呼んでみた。
「お母さん!」
「まだ眼を覚してるのですか。」と母はすぐに応じた。「早く眠っておしまいなさい!」
 澄子は布団の中に額までもぐり込んだ。息苦しくなってまた顔を出した。
 だいぶたつと、此度は辰代の方から呼びかけた。
「澄ちゃん!」
「なあに?」と澄子はすぐに応じた。
「まだ眠らないんですね。早く眠っておしまいなさいったら!」
 澄子はまた布団を被った。そして顔を出したり入れたりしてるうちに、三時が打った。襖一つ距てた向うの室に、今井がまだいるかいないか、しきりと気にかかった。寝工合が悪くて仕方なかった。何度も枕をなおしてるうち、辰代が本気で叱りつけた。
「何でいつまでも愚図愚図してるんです!」
 澄子は息をひそめた。三時が打ったきり、半時間も一時間も、いつまで待っても打たなかった。時計が止ったのじゃないかしら、と思う耳へ、秒を刻む音がはっきり響いてきた。仕方ないから、その音を一生懸命に聞き入った。そしていつしか、精根つきた重苦しい眠に、何もかも融け去っていった。
 非常に長くたってから……と後で思われた頃、澄子は消え入るような叫び声を立てた。辰代がはね起きてみると、澄子は脂汗を額から流しながら、死んだ者のように両手を胸に組み合わしていた。眸の定まらない眼を一杯見開いて、母の姿を見て取ると、泣声とも叫声とも分らない声を立てて、ひしと縋りついてきた。
「どうしたんです、澄ちゃん!」
「今井さんが……私を……殺そうとするから……。」
「えっ、何ですって!」
 しくしく泣出した澄子を放っておいて、辰代は蚊帳から匐い出した。そして台所の中に消えていった。澄子は泣きやめて、喫驚して起き上った。辰代は間もなく戻ってきて、足音を偸みながら玄関の室の襖に近寄り、そこにぴたりと身を寄せた。後ろ手にした右手に、庖丁を握りしめていた。暗薄い光りにも、ぴかりと光ったその刃先を認めて、澄子は夢中に飛びついていった。その気配に押し進められてか、辰代は澄子の手の届かないうちに、襖をさらりと引開けて、二三歩進んだ。澄子もその後に続いて駈け出た。玄関の火鉢の猫板によりかかって、今井が泣いていた。二人が飛び出したのにも顔を挙げないで、猫板の上を一杯涙で濡らしていた。
 澄子は二人の姿を――髪を乱して庖丁を握りしめながらつっ立ってる辰代と、火鉢によりかかって涙を流している今井とを――見比べてみたが、ぞっと背中が冷くなって、奥の室に逃げ込みかけた。その足を俄に返して、二階の階段を駈け上った。そして中村を激しく揺り起した。
「来て頂戴よ、早く。お母さんと今井さんとが大変です。早く……。」
 中村はゆっくり背伸びをしてから起き上った。そして着物を着代えた。帯を結んでる所を、澄子に引張られて下りてきた。
 辰代と今井とは、先刻のまま身動きもしないでいた。奥の室から流れ寄る薄暗い光に、中村はじろりとあたりの様子を見て、ぱっと電燈のねじをひねった。その明るい俄の光が、非常な効果を与えた。今井は夢からさめたように顔を挙げて、肩をすくめたが、それから寝間着の袖口で、猫板の上の涙を拭き取った。辰代も同じく夢からさめたように、手に握ってた庖丁に自ら気付いて、それを奥の室に投げやって、其処にぐたりと坐った。
「一体どうしたんです?」と中村は誰にともなく尋ねかけた。
 誰も返辞をする者がなかった。いつもあんなにいきり立つ辰代が、その時に限って何とも云わないことから、中村は事の重大なのを見て取って、縁側の方へ身を避けた。澄子もついていって、彼の後ろに身をひそめた。幾匹も蚊が集ってきた。そしてひどく蒸し暑かった。中村は立上って雨戸を二三枚開いた。外にはもう白々と夜明けの光が漂っていた。中村は思い出したように欠伸をして、凉しい空気を胸深く吸い込んだ。その時、今井の声がしたので、振向いてみると、今井は辰代の前にかしこまりながら、乱れた調子で云っていた。
「……私にはどうにも出来なかったんです。いけないと思えば思うほど、益々心が囚えられていったんです。然し自分では、真剣な恋だと思っています。余り真剣すぎる恋だと思っています。がそれももう駄目になりました。いくら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いても、どうにもならないことを悟りました。諦めます。一生懸命諦めます。」そして彼は歯をくいしばった。「諦められるかどうか分りませんが、兎に角努力してみます。それで、私は今日から引越すことにします。このまま愚図愚図してるのは、私のためにもあなた方のためにも、いけないことのように思われるんです。ただ私は、金がちっともあり
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