のまわりを送げ廻る[#「送げ廻る」はママ]につれて、腸がずるずる出てくるのを見て、皆で面白がったそうです。而もそれが、敵の兵士とは云いながら、やはり同胞のロシア人なんです。その話を聞いた時私は、何もかも打忘れて或る者を愛するとか、一身を擲って主義に奉仕するとか、そう云った偉い人間がロシアから出るのは、尤もなことだと思いました。憎悪とか愛情とか、残忍とか親切とか、さういった風な感情は、一方が強ければまたそれだけ他方も強いものです。所が日本人は、あらゆる感情が弱々しくて中途半端です。弱い半端な感情からは、決して偉大な行いは出て来ません。」
「然しそうだとすると、文明の否定ということになりはしませんか。凡て野蛮な悪い感情を洗練してゆくということが、文明の発達のように思えるんですが、あなたの説に依れば、野蛮時代に逆戻りをする方がいいことになりますね。」
「いえ逆戻りじゃありません。善い感情も悪い感情も、一緒に磨き上げてゆくのが文明です。悪い感情を善くなしてゆくとか、または悪い感情を滅して善い感情だけを育ててゆくとか云うのは、痴人の寝言です。そんなことをしてるうちには、感情全体が鈍ってきて、まるで去勢されたようになってきます。善と悪とが相対的のものである以上は、善い感情と悪い感情とは相対的なものです。一方が滅ぶれば他方も滅んでしまいます。両方を強く燃え立たして、ただどちらに就くかだけが問題です。野蛮時代は、いろんな火がごっちゃに燃えていたのですが、その火を選り分けて、純粋な焔を立てさせるのが文明です。そして肝要なのは、そのいろんな焔のどれに就くかという方向だけです。焔を弱める必要はありません。」
「それなら、ただ一つの火だけ燃やしたらいいじゃないですか。」
「それはキリスト教の云う言葉です。ギリシャの多神教ではそんなことは云いません。そしてキリスト教では、三位一体なんてことを鋭いていますが、あの神は実は人間ではなく怪物で、ギリシャの多神教の神々こそ本当の人間です。」
「それでは一層のこと、人間を止してしまった方がいいわけですね。」
「そうです。」
 今井が余り無雑作に肯定したので、中村は一寸意外な顔付で口を噤んでしまった。それから多少皮肉な調子で、病院に人体解剖を見に来ないか、人の頭の割れたのより遥かに参考になるかも知れない、などと云い出した。
「そんなものは駄目です。」と今井は答えた。「死んだ身体の解剖や、麻睡された者の手術なんかは、学者にしか用のないものです。はっきりした意識を持ってるぴんぴんした人体の解剖なら、私も是非見たいと思うんですが、そんなのは、野蛮人の間にしかないでしょう。」
「では戦争に行かれるといいですよ。」
 今井は何とも云えない嫌悪の表情をした。
「あなたの理論から云いますと、」と中村は追求した、「戦争もいいじゃないですか。」
「戦争は人を狂人《きちがい》になすから嫌です。」
「どうしてです?」
 今井は何とも答えないで、それきり押し黙ってしまった。
「もうそんな話は止しましょうよ。私嫌だわ。」と澄子が口を出した。
 中村は何と思ったか、俄に笑い出した。そして、今晩頭の割れたお化《ばけ》が出るなどと澄子をからかいながら、話は他の方へ外れていった。ただ今井ばかりは一口も口を利かなかった。十二時が打つと、喫驚したようにして室へ上っていった。
「十二時になって慌てて寝るなんて、今井さんの柄にもないわ。」と澄子は小声で云った。然しそれは当っていなかった。今井は室にはいったが寝もしないで、長い間考え込んでいたのである。
 そしてその晩のことは、或る印象を皆に与えた。辰代は、今井の話がよく分りはしなかったが、その全体から不気味な底深いものを感じて、多少畏敬の念の交った不安さを覚えさせられた。今迄単に変人だと思っていたものが、案外根深い所から来ているのであって、まかり間違えば、善にしろ悪にしろ、どんなことを仕出来すか分らない、といったような気がした。中村は、やはり今井を素直でない人間だと考え、衒っている――というのが悪ければ少くとも――僻んでいるのだと思った。澄子は、今迄通り今井を滑稽化して眺めたかったが、何かしら滑稽だとばかりは見做せないもののあるのを感じた。そしていろいろ考えた上、結局彼を野蛮人だとした。
 所が或る日、その変人で夢想家で野蛮人である今井が、雨にびしょ濡れになって帰って来た。学校から戻ったばかりの澄子が、袴姿のまま出迎えると、彼は雫の垂れる帽子を打振って水を切りながら、足が汚れてるから雑巾を下さいと云った。それを聞いて、台所にいた辰代がバケツに水を汲んできた。今井さんにありそうなことだ、と澄子が思ってると、辰代の方ではこう云っていた。
「雨の中を傘もささずに歩いていらっしゃるってことがあるものですか。あなたも少しお友達の真似をなすって、傘を借りっ放しにしていらっしゃれば宜しいではございませんか。」
「いや図書館に行ってたんです。」
「あら、今井さんでも図書館にいらっしゃることがあって?」と澄子は云った。
「たまに行ってみたから罰が当ったんでしょう。霽れるのを待つつもりだったんですが、少し気分が悪いから帰って来ました。」
 足を洗って上って来た彼の顔は真赤だった。その額に辰代が手をあててみると、火のように熱く感じられた。
「まあ大変なお熱でございますよ。すぐお寝みなさらなければいけません。……澄ちゃん、床を敷いておあげなさいよ。」
 澄子がまだ袴をつけてるのを見ると、辰代は自分から二階に上っていって、寝床を敷いてやり、濡れた着物を寝間着に着代えさしてやって、それから暫く枕頭に坐って様子を見守った。
「大したことじゃありません。」と今井は云った。「雨に当ったからかっとしたんです。少し寝ていればじきになおります。」
「でも兎に角、晩にはお粥が宜しゅうございますよ。拵らえて差上げましょう。」
 そして辰代は夕方、粥や梅干や一寸した煮肴などを持っていったが、今井は何も食べたくないと云って、それには手もつけないで、ただしきりにお茶ばかり飲んでいた。小用《こよう》に立って下りてくる時には、足がふらふらしていた。それでも大したことはないと云い張って、薬も手当も一切断った。
 辰代は心配しだした。中村が病院から帰ってくると、診てやってくれと頼んだ。
「どうされたんです? 熱がおありですか。」
 そう云って中村は今井の室にはいっていった。
「いや何でもありません。」と今井は天井を見つめたまま答えた。
「一寸脈を拝見してみましょうか。」
 そして中村がにじり寄ろうとすると、今井は手先を挙げてそれを制した。傍から辰代も勧めてみたが、彼は承知しなかった。
「私で不安心でしたら、懇意な内科の医者を呼んであげましょうか。」と中村は云った。
「いいえそうじゃありません。私は医学を信じないんです。」
 中村は微笑を洩らした。
「医者の大家には、よくそう云う人がありますが……。」
「医学くらい進歩していない学問はありません。」と今井は云い進んだ。「医学が一番進んでいる、などと云う人がありますが、真赤な嘘です。私はこう思うんです。凡そ天地間のあらゆる生物、または現象には、それに反対の生物や現象が必ずあるものです。そして病気に対して、その直接の反対のものを探し出すのが、医学の仕事でしょう。所が現在の医学では、そういうアンチ療法ということは、ごく僅かしか行われてやしません。行うことが出来ないんです。それで大抵は廻りくどい間接療法ばかりです。間接療法をやってるうちには、病気の方で衰えて、それで癒ったように見えることもありますが、それは偶然の結果で、実を云うと、病気は独りでに自然に癒ったのです。そして多くは、間接療法のために他の器官が弱らされて、回復が長引くばかりです。そんなことになるよりは、自然のまま放っておく方がましです。癒るものなら必ず癒るし、死ぬものなら必ず死にます。」
「驚きましたね、あなたから医学の講義を聞こうとは思いませんでしたよ。」そして中村は取ってつけたような笑い方をした。「そうするとあなたは……運命論者ですね。」
「反対です。生きるも死ぬるも自分の手で処置したいから、あやふやなことに望みをかけないだけです。」
 中村が何か云い出そうとすると、辰代はその袖を引張った。それで彼はただこう云った。
「その議論は全快されてからにしておきましょう。そして……いやそれくらい頭がはっきりしていられるんですから、大丈夫必配なことはありません。一寸した冷込みでしょうから、温くして寝ていられるがいいですよ。」
 中村が出て行こうとすると、今井は身を起しかけたが、手で制せられて、またがっくりと頭を枕につけた。
 辰代は中村の後を追っかけて、階下《した》に下りてきた。
「ほんとに喫驚なさいましたでしょう。私もあんな人だとは思いませんでした。どうぞお気を悪くなさらないで下さいましな。ああいう変った方ですから、悪気《わるぎ》で仰言ったのではございませんでしょうし、熱の加減もあったでしょうし……。」
「なあに私は何とも思ってやしません。それでも、医学の説明を聞かされたには一寸驚きましたね。」
「そして、どうなんでございましょう?」
「自分で大丈夫だと云っていますから、それより確かなことはありませんよ。ただ頭だけは冷してやった方がいいんですがね。」
「ではそう致しましょうか。」
 辰代は水枕をしてやり、額を水手拭で冷してやった。今井は黙ってされるままになっていた。そのうちにすやすやと眠った。辰代は少し安心した。
 所がその晩、辰代と澄子とがもう寝ようと思って、二階の様子に耳を傾けると、かすかな呻き声が聞えた。辰代は驚いて上っていった。見ると、今井は半ば布団から乗り出し、額にじっとり汗をにじませ、夢現《ゆめうつつ》のうちに呻っていた。身体が燃えるように熱くなって、熱っぽい息をつめながら呻っていた。辰代は狼狽し出した。そして澄子を呼んだ。
「まあ、大変な熱だわ。」と澄子は叫んだ。
「中村さんをお起ししましょうか。」
「でもお母さん、またあんなことになったら……。」
「それもそうですね。どうしましょう?」
「氷で冷したらどうかしら。」
 そして取敢えず、澄子が水手拭で額を冷してやってる間に、辰代は氷を買いに出かけた。もう十二時近くだった。近所の氷屋へ行って、幾度も戸を叩いて、漸く起きてきたのに尋ねると、氷は無くなったとの返辞だった。辰代は口の中で不平をこぼしながら、少し遠くの氷屋へ行きかけたが、懇意な家でさえこうだから……と見切りをつけて、急いで帰ってきた。
 それから辰代と澄子とは、寝もしないで今井の頭を冷してやった。水枕の水も金盥の水も、水道ので初めからそう冷くはなかったが、すぐ湯のようになった。幾度も取代えて来なければならなかった。
 雨はまだしとしと降り続いていた。夜が更けるに随って、雨が霽れてゆくのか、或はその音が闇に呑まれてゆくのか、あたりはしいんと静まり返った。時々呻り声を出したりぼんやり眼を見開いたりする今井の顔を、二人はじっと見守っていた。どうしたことか、天井裏の鼠の音さえしなかった。それにふと気付くと、澄子はぞっと水を浴せられたような気になった。
「あなたはもう寝《やす》んでいらっしゃい。明日《あした》学校があるから。」と辰代は云った。
 澄子はただ頭を振った。低い母の声までが無気味だった。今井さんは死ぬんじゃないかしら、とそんな気もした。辰代が水を取代えに立ってゆくと、彼女は自分でも訳の分らないことを一心に念じながら、今井の額の手拭を平手で押えてやった。ずきんずきん……という音のようなものが、手拭越しに伝わってきた。
 そのうち次第に今井の熱は鎮まってゆくようだった。それでも二人は、夜明け近くまで冷してやった。ごく遠くの方から、かすかなざわめきが起ってきて、寝呆けたような汽笛の音がした。それから暫くたった頃、すやすや眠っていた今井は突然眼を開いてあたりを見廻した。
「お気がつかれましたか。」と辰代は云った。「ひどいお熱でございました
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