んなお心なら、もう口出しは致しません。いえ致すものですか。どうとでも勝手になさるが宜しゅうございます。どんなにお困りなすっても、もう一切存じませんから。」
 彼女は腹を立てて、その腹癒せの気味もあって、やたらに気忙しなく用をしたり、そこいらのものをかき廻したりした。それを今井は済まなそうな眼付でちらと見やって、それから首垂れて考え込むのだった。
 然し彼女のそういう腹立ちを、澄子は傍から可笑しがっていた。
「お母さんくらい可笑しな人はないわ。自分のことはそっちのけにして、いつも他人《ひと》のことばかり心配しているんですもの。」
 それを辰代は聞き咎めた。
「馬鹿なことを仰言い! 自分のことは自分でちゃんとしていますよ。あなたまでそんなことを云うなら、私はもう何にも知りませんから、あなたが何もかもしてみるがようござんす。他人《ひと》さんのお世話をするのは、そりゃ容易なことではありませんよ。」
「だって、今井さんは初めから変人だと分ってるじゃありませんか。」
「いくら変人だからって、御自分のものを他人に持ってゆかれて平気でいるのは、あんまりひどうござんすよ。」
「それくらいのことは、今井さんには何でもないんでしょうよ、屹度。あんな人のことは、やきもきするだけ損だわ。考えてみれば、何もかも変じゃありませんか。家にいらしてから、一度も学校に行かれた様子もないんでしょう。いくら大学だからって、あんなに休んでばかりいていいものでしょうか。それに角帽が一つあるきりで、制服だって、持っていらっしゃるかどうか分らないし、ノートの一冊もないんでしょう。そして朝から晩まで、あの白木の机を拭き込むばかりで、ぼんやり考え込んでいて、一体、何をなすってるのか、何を考えていらっしゃるのか、まるで見当もつかないわ。私今井さんは屹度、文学とか哲学とか、そんなことをやる人だと思ってよ、いくらお母さんが注意してあげたって、ただ煩さがりなさるばかりだわ。」
 澄子の云うことは事実だった。今井は文科大学生と云ってはいるが、制服は勿論のこと、ノート一冊も持ってはしなかった。そして学校へ出ることも殆んどなかった。朝遅くまで寝ていて、多くは一日室の中に籠っていた。時々外出することもあったが、袴をつけたりつけなかったり、また時間も非常に不規則だった。そんなことを考えると、辰代は漠然とした不安を覚えてきた。
「でもこれは私の思い過ぎかも知れない。」と彼女はまた考え直してもみた。
 実際今井が変人だということは、日常の様子を見てもすぐに分った。辰代や澄子や中村などと顔を合せる時には、馬鹿に丁寧な挨拶をすることもあれば、むっつりとして眼を外らすこともあった。それがまるで気紛れで、こちらから挨拶すべきかどうか、その時々の見当が全くつかなかった。挨拶をしてるのに外方《そっぽ》を向かれることもあるし、黙ってるのに丁寧な挨拶をされることもあった。両方うまく調子が合うことは稀で、大抵は気まずい思いが残った。それからまた、毎晩玄関の茶の間に集って、皆で一寸世間話をするのが、殆んど習慣となっていた。中村は、一日病院で働いてしみ込んだ薬の香を、それによって消し去りたい気もあったろうし、澄子は、いろんなことを云って中村に甘えて、父や兄弟姉妹のない淋しさをまぎらしたい気もあったろうし、辰代は、話の仲間入りしてる風をしながら、自由に居眠りたい気もあったろうが、然し何よりも、皆揃ってのそういう雑談は、それが習慣となってしまうと、欠かしては何だか物足りないような、知らず識らずの淡い魅力を持っていた。所が今井は、辰代がいくら誘っても、越してきて一二度顔を出したきりで、その雑談の席に加わらなかった。辰代もしまいには誘わなくなった。そして時によると、今井に留守を頼んで皆して活動写真や寄席に出かけた。今日は私が留守をするからと中村が云い出し、辰代が今井を案内しようとすることもあったが、そんな所へは行っても退屈するばかりだと、今井はきっぱり断った。
 その退屈という言葉が可笑しいと云って、澄子は笑った。
「あんなに一日中じっとしていて、その方がよっぽど退屈な筈だわ。」
 そして彼女は、そのことを今井に向ってまで云った。
「じっとしていても私は退屈はしません。」と今井は答えた。
「じゃ何が面白いの?」と澄子は尋ねた。
「何にも面白いことはありません。」と今井は答えた。
「それではやっぱり退屈じゃありませんか。」
「いえ、面白くもないが退屈でもありません。」
「では何でしょう?」
「そうですね、何でしょう?」そう彼は繰返して、俄に陰鬱な顔付になった。「まあ、夢をみてるようなものですね。」
「だって夢は面白いものだわ。」
「それは後から考えるから面白いので、みてる当時は、面白くも退屈でもありません。」
「あら、そうかしら……。」
 そして暫くたってから、いろいろ考えてみた上で、そうかも知れないと彼女は思った。と同時に、この新発見を友達に云い触らそうと思いついて、一人にこにこ笑いだした。そしてそれを教えてくれた今井のことを、夢想家だとしてしまった。
 その夢想家の今井が、或る晩十一時頃、酒に酔って帰ってきた。丁度皆茶の間に集って、少し長くなって、雑談の種もつきて、ぼんやりしてる所だった。今井は酒臭い息を吐きながら、それでも足許は確かで、勢よくはいり込んできて、室の片隅に腰を下して、水を一杯ほしいと云い出した。辰代は喫驚した顔付で、台所へ水を汲みに立っていった。帰って来るといつもすぐ二階へ上ってしまう彼が、そして二階には水も湯もある筈なのに、その時に限って、皆の仲間入りをしたのも珍しかったし、また酒は嫌いだと云っていた彼が、酔ってるらしいのも珍しかった。然し水を汲んできて更に彼女が喫驚したことには、今井は立派な西洋菓子の箱を其処に差出して、皆で食べてくれと云った。
「今日はどうなさいましたの。」と彼女は尋ねた。
「一寸愉快なことがあったんです。」と云って今井はさも愉快そうに眼を輝かした。「友人に出逢いまして……そら、こないだ私の着物を着ていった奴です。見ると、私の着物を着て澄し込んでるじゃありませんか。それで私は、着物のことであなたからさんざん小言をくったわけを、そっくり云ってやりましたよ。すると大変恐縮して、今日は少し金がはいったから、御恩返しをしようと云い出したんです。そして私を引張っていって、御馳走を食わしてくれました。私も常なら酒は飲まないんですけれど、そういう意義のある酒ならと思って、可なり飲んでやりました。それから帰りに、彼はこの菓子を買ってきて、是非あなたに上げてくれと云うんです。だから持って来ました。」
「まあ、あの方が!」と辰代は怪訝な顔をしたが、急に何やら腑に落ちたらしい様子で、「へえ左様でございましたか。それでは皆で頂くことに致しましょう。」
 それでも、菓子を半分ばかり食いかけた時、彼女はふと思い出したように云った。
「そして、お召物はどうなさいましたの。」
「彼にくれてきました。」
「えっ!」
「向うでそれだけの好意を見せてくれたんですから、こちらでも好意を以て、着物は君に上げようと云ってきました。」
「まあとんでもない! だからあなたは仕様がございませんよ。それではうまうまひっかかってしまったようなものですよ。向うではあなたがそういう人だということを承知の上で、企んでやったことに違いありません。それなのに、私にお菓子を買って寄来すなんて、図々しいにもほどがありますよ。」
 それでも彼女は、手に残りの半分の菓子を食べてしまった。
「そうばかりでもないでしょう。人の好意は正面から受け容れるのが私の主義です。」と云ってから今井は、俄に話を変えた。「今日だけは小言は止して下さい。珍しく酒を飲んで愉快になってるんですから。……そんな話よりも、全く素晴らしいことを見て来ましたよ。」
「どんなことです?」
 さっきから皮肉な笑顔で二人の話を聞いていた中村が、そう引取って尋ねた。
「私は人間の頭があんなに脆いものだとは思いませんでした。」
「人間の頭ですって?」
「そうです。実はこの菓子折を下げて、友人と二人で、或るカフェーにはいって、酔いざめの冷いものを飲んでいました。すると、不良少年……と云ってももう青年ですが、そういう二三人の連中と。やはり二三人の朝鮮人か支那人らしい、怪しい様子の連中との間に、喧嘩が初ったのです。何がきっかけだかは分りませんが、大きな怒鳴り声がしたので振向いてみると、両方立上って殴り合おうとしてるんです。と思ううちに、その不良青年らしい方の一人が、相手から先を越されて頬辺《ほっぺた》に拳固を一つ喰わせられましたが、一足よろめきながら、側の卓子の上にあった空《から》のビール瓶を取って、向うの奴の脳天から打ち下したんです。ビール瓶はそのまま壊れもしないで、相手の男はばったり倒れてしまいました。よく見ると、頭の鉢が割れて、血がどくどく流れ出してるじゃありませんか。」
「まあ、本当?」と澄子が声を立てた。
「本当ですとも。私は喫驚してしまいました。空のビール瓶で、それも瓶がわれて、割れ目で切れるとかなんとかなら、まだ分っていますが、丸のままの瓶で、頭蓋骨を叩き割るというのは、いくら腕が冴えていたって、一寸考えつかないことですよ。」
「然しそれは、ただ皮膚が破れたばかりではなかったのですか。」と中村が云った。
「いえ確かに頭蓋骨がわれたんです。頭の形が変梃になって、傷口から石榴のようなぐじゃぐじゃなものが見えていました。」
「そして。それからどうしました?」
「その男が倒れると、カフェー中の者は総立ちになりました。がその隙に、殴った方の連中は、何処かへ逃げ出してしまったんです。そして皆で、倒れてる男を引起したんですが、もう死んでるらしいんです。即死ですね。それから大騒ぎになって、その男は仲間の者から、すぐ病院へかつぎ込まれるし、警官はやって来るし、野次馬はたかるし、ごった返しましたが、どういうものか、警官は皆をカフェーの外に逐い出してしまいました。それを幸に、私達も外に出ました。証人にでも引張り出されちゃつまりませんからね。」
「おまけに、金も払わなくて済んだわけですね。」と中村は云った。
 その言葉に、澄子は一寸微笑を洩らしたが、今井は不快そうに眉根を寄せた。そして暫く黙っていた後、宛も胸の鬱憤をでも晴らすような調子で、口早に云い出した。
「私は人間の頭蓋骨が、あんなに脆いものだとは思わなかったんです。所があれを見てから、空のビール瓶で打割られたのを見てから、変に興奮してしまいました。いつ自分の頭も打割ちれるか分らない、うっかりしてはいられない、とそんな気がしたんです。明かに殺意を以て頭を割られるのは構いませんが、偶然に割られるのは考えても堪りません。あの連中だって、前から遺恨があってのことではなく、また殺そうとか殺されるとかいうつもりでもなく、ただ偶然にああなったまでのことでしょう。それを考えると、何だか私はじっとしていられないような気持になってきます。」
「然し、」と此度は真面目な調子で中村は云った、「偶然だからまだいいんで、初めから殺意があったらなおいけないじゃありませんか。」
「私はその反対だと思うんです。意識的に殺されるのは構わないが、偶然殺されるなんて真平です。」
「では殺す方はどうでしょう。」
「殺す方だって同じです。偶然に人殺しをするような者は、永久に救われない奴です。けれど、意識して人を殺せるくらいな人間は、またどこか偉い所があると思うんです。私は友人からこういう話を聞いたことがあります。ゴリキーの書いたものにあるそうですが、ロシアの革命の頃、或る処の農民は、捕虜にした何十人かの敵の兵隊を、逆様に腿まで地中に埋めて、苦しさに足をぴんぴんやって死んでゆくのを眺めて、何奴《どいつ》が一番我慢強いとか、何奴が一番息が長いとか、そんなことを云い合って面白がったそうです。また或る処では、捕虜の腹から腸の一部を引出して、それを樹木の幹に釘付にし、皆で其奴を鞭で引叩き、其奴が木
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