に、殴った方の連中は、何処かへ逃げ出してしまったんです。そして皆で、倒れてる男を引起したんですが、もう死んでるらしいんです。即死ですね。それから大騒ぎになって、その男は仲間の者から、すぐ病院へかつぎ込まれるし、警官はやって来るし、野次馬はたかるし、ごった返しましたが、どういうものか、警官は皆をカフェーの外に逐い出してしまいました。それを幸に、私達も外に出ました。証人にでも引張り出されちゃつまりませんからね。」
「おまけに、金も払わなくて済んだわけですね。」と中村は云った。
 その言葉に、澄子は一寸微笑を洩らしたが、今井は不快そうに眉根を寄せた。そして暫く黙っていた後、宛も胸の鬱憤をでも晴らすような調子で、口早に云い出した。
「私は人間の頭蓋骨が、あんなに脆いものだとは思わなかったんです。所があれを見てから、空のビール瓶で打割られたのを見てから、変に興奮してしまいました。いつ自分の頭も打割ちれるか分らない、うっかりしてはいられない、とそんな気がしたんです。明かに殺意を以て頭を割られるのは構いませんが、偶然に割られるのは考えても堪りません。あの連中だって、前から遺恨があってのことではなく、また殺そうとか殺されるとかいうつもりでもなく、ただ偶然にああなったまでのことでしょう。それを考えると、何だか私はじっとしていられないような気持になってきます。」
「然し、」と此度は真面目な調子で中村は云った、「偶然だからまだいいんで、初めから殺意があったらなおいけないじゃありませんか。」
「私はその反対だと思うんです。意識的に殺されるのは構わないが、偶然殺されるなんて真平です。」
「では殺す方はどうでしょう。」
「殺す方だって同じです。偶然に人殺しをするような者は、永久に救われない奴です。けれど、意識して人を殺せるくらいな人間は、またどこか偉い所があると思うんです。私は友人からこういう話を聞いたことがあります。ゴリキーの書いたものにあるそうですが、ロシアの革命の頃、或る処の農民は、捕虜にした何十人かの敵の兵隊を、逆様に腿まで地中に埋めて、苦しさに足をぴんぴんやって死んでゆくのを眺めて、何奴《どいつ》が一番我慢強いとか、何奴が一番息が長いとか、そんなことを云い合って面白がったそうです。また或る処では、捕虜の腹から腸の一部を引出して、それを樹木の幹に釘付にし、皆で其奴を鞭で引叩き、其奴が木のまわりを送げ廻る[#「送げ廻る」はママ]につれて、腸がずるずる出てくるのを見て、皆で面白がったそうです。而もそれが、敵の兵士とは云いながら、やはり同胞のロシア人なんです。その話を聞いた時私は、何もかも打忘れて或る者を愛するとか、一身を擲って主義に奉仕するとか、そう云った偉い人間がロシアから出るのは、尤もなことだと思いました。憎悪とか愛情とか、残忍とか親切とか、さういった風な感情は、一方が強ければまたそれだけ他方も強いものです。所が日本人は、あらゆる感情が弱々しくて中途半端です。弱い半端な感情からは、決して偉大な行いは出て来ません。」
「然しそうだとすると、文明の否定ということになりはしませんか。凡て野蛮な悪い感情を洗練してゆくということが、文明の発達のように思えるんですが、あなたの説に依れば、野蛮時代に逆戻りをする方がいいことになりますね。」
「いえ逆戻りじゃありません。善い感情も悪い感情も、一緒に磨き上げてゆくのが文明です。悪い感情を善くなしてゆくとか、または悪い感情を滅して善い感情だけを育ててゆくとか云うのは、痴人の寝言です。そんなことをしてるうちには、感情全体が鈍ってきて、まるで去勢されたようになってきます。善と悪とが相対的のものである以上は、善い感情と悪い感情とは相対的なものです。一方が滅ぶれば他方も滅んでしまいます。両方を強く燃え立たして、ただどちらに就くかだけが問題です。野蛮時代は、いろんな火がごっちゃに燃えていたのですが、その火を選り分けて、純粋な焔を立てさせるのが文明です。そして肝要なのは、そのいろんな焔のどれに就くかという方向だけです。焔を弱める必要はありません。」
「それなら、ただ一つの火だけ燃やしたらいいじゃないですか。」
「それはキリスト教の云う言葉です。ギリシャの多神教ではそんなことは云いません。そしてキリスト教では、三位一体なんてことを鋭いていますが、あの神は実は人間ではなく怪物で、ギリシャの多神教の神々こそ本当の人間です。」
「それでは一層のこと、人間を止してしまった方がいいわけですね。」
「そうです。」
 今井が余り無雑作に肯定したので、中村は一寸意外な顔付で口を噤んでしまった。それから多少皮肉な調子で、病院に人体解剖を見に来ないか、人の頭の割れたのより遥かに参考になるかも知れない、などと云い出した。
「そんなものは駄目です。」と今
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