…。」
そして暫くたってから、いろいろ考えてみた上で、そうかも知れないと彼女は思った。と同時に、この新発見を友達に云い触らそうと思いついて、一人にこにこ笑いだした。そしてそれを教えてくれた今井のことを、夢想家だとしてしまった。
その夢想家の今井が、或る晩十一時頃、酒に酔って帰ってきた。丁度皆茶の間に集って、少し長くなって、雑談の種もつきて、ぼんやりしてる所だった。今井は酒臭い息を吐きながら、それでも足許は確かで、勢よくはいり込んできて、室の片隅に腰を下して、水を一杯ほしいと云い出した。辰代は喫驚した顔付で、台所へ水を汲みに立っていった。帰って来るといつもすぐ二階へ上ってしまう彼が、そして二階には水も湯もある筈なのに、その時に限って、皆の仲間入りをしたのも珍しかったし、また酒は嫌いだと云っていた彼が、酔ってるらしいのも珍しかった。然し水を汲んできて更に彼女が喫驚したことには、今井は立派な西洋菓子の箱を其処に差出して、皆で食べてくれと云った。
「今日はどうなさいましたの。」と彼女は尋ねた。
「一寸愉快なことがあったんです。」と云って今井はさも愉快そうに眼を輝かした。「友人に出逢いまして……そら、こないだ私の着物を着ていった奴です。見ると、私の着物を着て澄し込んでるじゃありませんか。それで私は、着物のことであなたからさんざん小言をくったわけを、そっくり云ってやりましたよ。すると大変恐縮して、今日は少し金がはいったから、御恩返しをしようと云い出したんです。そして私を引張っていって、御馳走を食わしてくれました。私も常なら酒は飲まないんですけれど、そういう意義のある酒ならと思って、可なり飲んでやりました。それから帰りに、彼はこの菓子を買ってきて、是非あなたに上げてくれと云うんです。だから持って来ました。」
「まあ、あの方が!」と辰代は怪訝な顔をしたが、急に何やら腑に落ちたらしい様子で、「へえ左様でございましたか。それでは皆で頂くことに致しましょう。」
それでも、菓子を半分ばかり食いかけた時、彼女はふと思い出したように云った。
「そして、お召物はどうなさいましたの。」
「彼にくれてきました。」
「えっ!」
「向うでそれだけの好意を見せてくれたんですから、こちらでも好意を以て、着物は君に上げようと云ってきました。」
「まあとんでもない! だからあなたは仕様がございませんよ。それではうまうまひっかかってしまったようなものですよ。向うではあなたがそういう人だということを承知の上で、企んでやったことに違いありません。それなのに、私にお菓子を買って寄来すなんて、図々しいにもほどがありますよ。」
それでも彼女は、手に残りの半分の菓子を食べてしまった。
「そうばかりでもないでしょう。人の好意は正面から受け容れるのが私の主義です。」と云ってから今井は、俄に話を変えた。「今日だけは小言は止して下さい。珍しく酒を飲んで愉快になってるんですから。……そんな話よりも、全く素晴らしいことを見て来ましたよ。」
「どんなことです?」
さっきから皮肉な笑顔で二人の話を聞いていた中村が、そう引取って尋ねた。
「私は人間の頭があんなに脆いものだとは思いませんでした。」
「人間の頭ですって?」
「そうです。実はこの菓子折を下げて、友人と二人で、或るカフェーにはいって、酔いざめの冷いものを飲んでいました。すると、不良少年……と云ってももう青年ですが、そういう二三人の連中と。やはり二三人の朝鮮人か支那人らしい、怪しい様子の連中との間に、喧嘩が初ったのです。何がきっかけだかは分りませんが、大きな怒鳴り声がしたので振向いてみると、両方立上って殴り合おうとしてるんです。と思ううちに、その不良青年らしい方の一人が、相手から先を越されて頬辺《ほっぺた》に拳固を一つ喰わせられましたが、一足よろめきながら、側の卓子の上にあった空《から》のビール瓶を取って、向うの奴の脳天から打ち下したんです。ビール瓶はそのまま壊れもしないで、相手の男はばったり倒れてしまいました。よく見ると、頭の鉢が割れて、血がどくどく流れ出してるじゃありませんか。」
「まあ、本当?」と澄子が声を立てた。
「本当ですとも。私は喫驚してしまいました。空のビール瓶で、それも瓶がわれて、割れ目で切れるとかなんとかなら、まだ分っていますが、丸のままの瓶で、頭蓋骨を叩き割るというのは、いくら腕が冴えていたって、一寸考えつかないことですよ。」
「然しそれは、ただ皮膚が破れたばかりではなかったのですか。」と中村が云った。
「いえ確かに頭蓋骨がわれたんです。頭の形が変梃になって、傷口から石榴のようなぐじゃぐじゃなものが見えていました。」
「そして。それからどうしました?」
「その男が倒れると、カフェー中の者は総立ちになりました。がその隙
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