ような、変な心地がしたので、寝呆け眼であたりを見廻すと、古い十燭の電燈に覆いをした、影を含んでるぼやけた光が、薄すらと流れ出してる次の玄関の室に、物の動いてる気配《けはい》がした。おやと思って、蚊帳越しに眸を定めてみると、薄青の地に白菊くずしの模様のあるメリンスの着物が、室の真中にぶら下っていた。そんな筈はない、と思うとたんに眼が冴えた。長い髪の毛を乱した今井が、横顔をこちらにして、彼女の平常着《ふだんぎ》を引っかけ、襟を合したその両手を、そのまま胸に押しあてて、歩いてみようか坐ってみようかと思い惑った形で、なおじっと立ちつくしてるのだった。それと分った瞬間に、澄子はぶるぶると身体が震えて、何を考える隙もなく、母の方へ手探りに匐い寄って、力一杯に揺り起した。
「お母さん、お母さん、今井さんが……。」
 出すつもりの声が出なかったのか、辰代はきょとんとした眼で見廻したが、澄子に指さされるまでもなく、今井の姿がちらりと動いて、半ば立て切ってある襖の影に、はいってしまおうとしかけた時、彼女はがばとはね起きて、次の室に飛び出していった。
「今井さんじゃございませんか。」
 澄子の着物の中で、今井は棒のように立竦んだ。
「何をなすっていらっしゃるのです?」
 見据えられた眼付を、身体を固めてはね返していたが、やがて今井はふわりと女着物を脱ぎすて、棒縞の寝間着一つになって、押し伏せられるように其処に坐った。辰代は澄子の着物を、片手を差伸して引寄せ、それから前腕に抱え取った。その威猛高な立像の前に、今井は頭を垂れて、一語一語に力をこめながら云った。
「私はお願いがあります。澄子さんを……私に下さいませんか、私と結婚を許して下さいませんか。一生、命にかけても、私は澄子さんを愛してゆきます。許して下さい。一生のお願いです。」
 辰代はぶるぶると身を震わして、なお一寸つっ立っていたが、くるりと向き返って縁側に出で、さも忌々しいといったように、澄子の着物を打ちはたき、それを奥の室の隅に投げやり、玄関の室との間の襖を、手荒く閉め切っておいて、また蚊帳の中にはいって来た。そして、布団の上に坐ってる澄子へ、叱りつけるように云った。
「早く寝ておしまいなさい!」
 澄子は驚いて布団の中にもぐり込んだ。母が今井の言葉に対して一言も云い返さなかったのが、異常な恐ろしいことのような気がした。母が息をつ
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