眼だった。澄子はその眼を、あらゆることのうちに感じた。
 彼はこれまで、朝顔を洗うのに、ただ水でじゃぶじゃぶやるだけだったが、或る朝澄子が喫驚したことには、彼女がいつも使うクラブ洗粉を、いつのまにか買ってきて、それで念入りに洗っていた。髯を剃った後には、彼女が用ゆるのと同じホーカー液を、女らしい手附でぬっていた。――彼はいつも朝寝坊だったが、俄に早起になってきて、澄子が学校に行く前に髪を結ってると、少し離れた所に屈み込んで、あかずに眺め入ることが多かった。「澄子さんの髪は綺麗だなあ、」と彼はよく独語の調子で呟いた。――或る時彼は、縁側に屈みこんで、しきりに足の指をいじくっていた。何をしてるのかと思って、澄子がそっと覗いてみると、彼はひょいと振返った。その視線が、彼女の素足の親指に来た。「澄子さんの足の指は、どうしてそうまむしが出来るんです?」その言葉に喫驚して彼女は、力を入れた足の親指に眼を落すと、今迄自分でも気付かなかったが、小さな爪が深く喰い込んでる子供らしい指の間接[#「間接」はママ]に、くりくりしたまむしが出来ていた。
 そういうことのうちに、それからまだいろんな些細なことのうちに、澄子は自分を見つめてる今井の眼を感じた。そしてその眼が、四方から自分の身辺に迫ってくるような気がした。殊に或る日、彼女は台所で一寸母の手伝いをして、其処から出ると、縁側に今井が立っていた。彼女が学校から帰ってきて、脱ぎすてたまま室の隅に片寄せておいた袴を、後ろ前も前と一緒に持ち添えて、それを帯の所にあてがいながら、しきりに首をひねって考えていた。その様子が変に滑稽でまた真面目だった。澄子は思わず放笑《ふきだ》そうとしたが、喉がぎくりとしてつかえてしまった。それからどうしていいか分らなくなった。いきなり台所へ駈け戻って、「お母さん、玄関にどなたかいらしたようよ、」と大きな声で叫び立てた。そして手を拭き拭き出て行く母の後ろから、自分もそっとついて行った。見ると、今井は袴を投り出して、素知らぬ顔でつっ立っていた。彼女はほっと安堵して、彼の方をちらと見やりながら、袴を取ってきて、丁寧にたたんで箪笥の上にのせた。
 それまではまだよかったが、やがて、もうどうにも出来ないことが起った。
 夕方から風がぱったりと止んだ、いやに蒸し暑い晩だった。真夜中に、澄子はふと眼を覚した。物に慴えて息苦しい
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