出ていった。見ると、学生は首を垂れて考え込んでいた。その顔をひょいと挙げて、辰代の視線にぶつかると、すぐに眼を外らして、いきなり一つお辞儀をした。
「私は何か悪いことをしたんでしょうか。悪いことをしたんでしたら、いくらでも謝ります。」
「いいえ、そんなわけではございませんが……。」
 辰代は口籠りながら奥の室を顧みた。
「それでは私に室を貸して頂けますでしょうか。」
 その懇願するような眼付を見て、辰代は心の据え場に迷った。そして助けをかりるような気持で、奥の室の娘の方へ呼びかけた。
「澄ちゃん、お茶でもおいれなさいよ。」
 澄子が立って来て、お辞儀をすると、学生は眼を見張った。
「あの、どなたかお家の方ですか。」
「娘でございますよ。」
「あそうですか。失礼しました。」
 彼はきちんと坐り直して、とってつけたように低くお辞儀をした。その様子を下目にじろりと見やって、澄子はくくっと忍び笑いをした。辰代はその袖を引張った。
「この方が二階の室を借りたいと仰言るんですが……。」
 云いかけた所を、澄子の笑ってる眼付で見られて、辰代は自分の余《あんま》りな白々しさが胸にきて、文句につまってしまった。それへ向って、学生はまた一つお辞儀をした。
「どうか願います。」
 ぷつりと云い切って、身を固くかしこまったまま、もう身動き一つしなかった。
 暫く沈黙が続いたのを、辰代が漸う口を開いた。
「私共ではこの二人きりで、手不足なものでございますから、何もかも不行届きがちになりますけれど……。」
「なに結構です。それでは今晩参ります。」
「あの今晩すぐに……。」
「ええ。学生の引越しなんか訳はありません。」
 彼はもう立ちかけていた。
「では急ぎますから、失礼します。」
 辰代と澄子とは、彼をぼんやり玄関に見送った。それから障子を閉めきると、辰代はほっと吐息をついた。
「私あんな人は初めてですよ。」
「でも正直そうな人じゃありませんか。少し変ってるけれど、ひょっとすると……あれで天才かも知れないわ。」
 天才という言葉がすぐには腑に落ちかねて、辰代は眼を瞬いた。
「本当に今晩越してくるのでしょうか。」
「あんな人だから、屹度来るに違いないわ。」
「それなら掃除をしておかなければなりませんね。」
 綺麗好きな辰代はすぐに二階の四畳半の掃除にかかった。先ず室を掃き出しておいて、押入や畳に
前へ 次へ
全42ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング