ちのことは僕は知らない。だが、世の中は穢いものであり、穢い中にこそ本当の人間性があるのだとしたら……どうなるんです。個人主義の理想主義は一種の眼鏡にすぎないとしたら……。」
「君の云うのはよく分る。然しそれは自分の船を焼き捨てない前のことだ。一度船を焼いてからは、個人主義だの、理想主義だの、そんなところにうろついてることは出来ない。もっと切端つまった戦だ。現実と云うものは、見て取られるものではない、戦い取るべきものだ。それが出来なかったら、死ぬより外はないだろう。」
島村の声の調子は異様に静かだった。宮崎はそれに耳を澄しながら、また足音に聞き入った。じっと足先に眼を落して、いつまでも黙っていた。
「本当に愛するか、憎むか、どちらかだ。中途半端なところは、君の文学に任せておけばいい。」
宮崎はまだ黙っていた。公園をぬけて、寝静ってる街路に出ると、遠くに犬の声がした。
宮崎のアパートの前まで来て、島村は立止った。
「気をつけ給え。」
それきりで、彼は立去っていった。宮崎はそこに佇んで、腕を組んだ。
三
「笹本」のおけいからばかばかしいことを頼まれて、私は弱った。――宮崎がどうしたことか、毎晩やって来ては酔っ払って仕様がない。一寸立寄って、また夜遅くやって来ることもある。無理に帰そうとすると、乱暴もしかねない剣幕だった。それをまた、清子がいい飲み相手にして、手がつけられない。おけいが外に泊る時には、どこでどう打合せるものか、宮崎を引入れて遅くまで飲み明す。それが毎度のことだ……、私は彼女を眺めた。毎度といっても、それから十日とたってはいなかったのだ。……いいえ、そうじゃないんですよ、と彼女は餉台の上を平手でとんと叩いた。あの時と、それからも一度……それくらい、あたしだって外にいろいろ用があるんじゃありませんか。でも、二度あれば、それでもう沢山。毎度といってもいいでしょう。そりゃあ、変なことはないにしても、困るじゃありませんか。何とか、意見をしてやって下さいません。清子の方はだめ、とてもあたしの云うことなんか聞くものですか。ほんとに困ってるんですよ。何もかも調子が狂ってしまったようで、あたし、くさくさして……。彼女は眉間に深い皺を寄せた。だが、彼女が清子に意見したというのも怪しいものだった。それはとにかく、頼まれた以上、宮崎に何とか注意してやりたかったが、そんなこと、へまに云い出そうものなら、却って結果は悪くなる。私は当惑して、長尾か大西に頼んでは……と云ってみた。おけいは眉根の皺をぐっと深くして、むきになった。そんならいい、あなたには何にも頼みません……。私は彼女の怒った顔を初めて見た。額が狭くて、打震えてる上唇の上に、うすい毛が生えそうだった。
幸にも、私はその嫌な役目をのがれることが出来た。その頃、私達はたしかに少し荒れていた。その晩も、長尾と私と野口――この野口というのは、放送局に勤めてる男だが、酔うと相撲をとりたくなるという妙な癖があり、ふだんは変にお高く澄しこんでる見栄坊だった――三人で、一騒ぎして、芸者を二人連れて、「笹本」に敬意を表しに来たものである。そして奥の室で飲んでるところに、少し酒気を帯びた静葉が、元気よくとびこんできた。今晩は、おばさあん……。そして私達の方を見ると、つんとしたお辞儀をした。用があるのよ……。彼女はおけいと、何かひそひそ話をしていた。だいぶかかった。
「そんなら、今だっていいわ。呼びましょうか。いらしてるのよ。」
「まあ、この人は……。」
静葉は電話にかかった。
私は彼女の方に注意をむけていた。あれきり島村に逢わないので、少々気になっていたのである。注意してると、静葉は島村からことずかって勘定を払いに来たものらしく、またおけいは、島村に逢いたいことがあると頼んだらしい――多分宮崎のことについてだろう。私は肩の荷が軽くなるのを覚えたが、また不安にもなった。
静葉はやがて私達の方へ来た。彼女はいつ見ても少しも変らなかった。顔のわりに眼も鼻も口も小さいので、少し痩せたらもっと綺麗になるだろうと思われるくらいに肥ってる、大柄なぱっとした女で、あけすけで、影もなく、底もなく、捉えどころがなく、そして朗かで、そのくせ調子に一寸険のある女だった。彼女をよく見ていると、どんなことでもやりかねない危険さが感じられた。
「あたし今日はお客よ。」
そして彼女は杯を斜に取上げたが、すぐに、他の芸者たちと、そして殊に清子と、内緒話を初めた。
島村が間もなくやってきた。彼は私達の方を見やって、一寸眉をひそめたが、黙っておけいの方へ行った。だいぶ長く話していた。
私達の方へ来て、一通り会釈をする時、彼はなぜか顔をほんのり赤らめた。静葉が立上っていって、彼と何か囁き合った。彼は静葉のあとの
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