て呑みこみ、それが胃袋を擽る拍子に自然と嘔気を催し、胃袋の毛を吐き出してしまうのである。――毛をなめるのが猫の化粧であるとするならば、その結果の胃袋の毛を吐き出すのに、草の葉を呑みこんで胃袋を擽るというのは、随分ととぼけたやり方である。
 以前、埼玉県の或る農家の娘に、訳の分らぬ胃の病気にかかったのがあった。あちこちの医者に診せたが、どうしても明瞭なことが分らない。遂に某外科医が診察を主眼として胃の切開をやったところ、沢山の毛髪が胃袋の底にこんぐらかっていたという。――田舎の娘などはよく、髪の後れ毛をちょっと唇に含む嬌態をなすことがある。この娘にもその癖があって、長い間に知らず識らず髪の毛を沢山嚥下したために胃袋を切開されたのも、おかしな話である。
 ところで、或る謹厳な君子が、地方の知人から一人の青年を自宅に預ったところ、二ヶ月ほどして、その青年を追い出してしまった。理由はその家にだらしない女中がいて、食物のなかに髪の毛などを時々落すことがあるが、青年はそれを平気で食べてしまうからであり、女の髪の毛を嫌がらないような青年は、ひどく淫蕩な性質だというのである。――この話、甚だ不快で、右のような解釈を考えたその謹厳な君子こそ、甚だ淫蕩な気質だと思われるが、如何なものであろうか。

      D

 これは笑話だが、ごく常識的に云って、痛さと、痒さと、擽ったさと、どれに人は最も我慢しやすいであろうか。
 答えは大抵きまっている。痛さが最も我慢しやすいというのである。痛さというものは、何かしら堅固で明確で、強い抵抗力を持っているので、こちらもそれにぶつかって、積極的に抵抗することが出来るし、緊張の極、他のものに転化する可能性さえある。
 之に反して、痒さや擽ったさは、何かしら不確実でぬらくらしているので、積極的に抵抗し難く、随って我慢し難いのである。感情的にも、痒さは卑俗であり、擽ったさは卑猥である。
 そこで、次に、痒さと擽ったさとどちらが我慢しやすいかとなると、答えはさまざまである。それはもはや、情操の問題、好尚の問題である。試みに想像してみれば、痒さを我慢している人の相貌には、唾棄すべきものがあり、擽ったさを我慢してる人の相貌には、擯斥すべきものがある。
 肉体的に、まずそうしておこう。ところで、精神状態も生理の一部であってみれば、ここに、痛さを我慢してる精神や、痒さを我慢してる精神や、擽ったさを我慢してる精神などが、在るわけである。
 更に、絵画や彫刻や文学作品などにも、痛さと痒さと擽ったさのどれかを我慢してるものが在るわけである。――私はそういうものを少し物色してみたことがある。非常に面白い結果を得た。だがここにはそれを列挙するを憚るとしよう。

      E

 仔細あって、各地の民話を調べていたところ、随分面白いのがある。ちょっと風変りなのを拾い出してみようか。――これはフランスのべリー地方のもので、簡略に書き直してみたもの。
 ――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。
 ――銀の羽子の鳥を見たよ。
 ――そんなのがいるものかい。
 ――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。
 ――おう伴の人、銀の羽子の鳥を見たとか、御主人が云うのは本当かね。
 ――それは違うよ。私は銀の翼の鳥を見たが、その鳥のことでもあろう。
 ――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。
 ――ぼうぼう燃えてる池を見たよ。
 ――そんなのがあるものかい。
 ――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。
 ――おう伴の人、ぼうぼう燃えてる池を見たとか、御主人が云うのは本当かね。
 ――それは違うよ。私は尻尾の焦げた鯉の泳ぐを見たが、その池の鯉でもあろう。
 こんな調子で長く続くのである。而もこれは民話というより、一種の民謡で、歌うように語られるのである。
 こんなことを肥った年とった女が、日当りのよい庭などで、編物をしながら、或は糸車を廻しながら、孫でもあろう子供に歌ってきかしている、そうした光景を想像するのも、時にとっては一興である。

      F

 宮本武蔵政名が、仇敵佐々木劔刀斎岸柳の動静を探らんがため、変名して木下家の足軽に住み込んでいた頃、この木下若狭守の居城、播州姫路の城の、五重の天主閣の絶頂には、嘗て羽柴筑前守秀吉がそれを造営した頃より、故あって、高野師直の娘|刑部《おさかべ》姫の霊が祀られてあって、そこへ登ること相成らずと禁ぜられていた故、其後誰一人登った者もなく、もし登れば刑部明神の怒りにふれて命を失うものと、いつしか言い伝えられていた。その怪異を見届けんがため、宮本武蔵は家老木下将監の内命を受けて、この陰々たる天主閣、下が千畳敷、二重が八百畳、三重が六百畳、四重
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