が自慢なのである。もし一二枚で終るほど弱い胃袋の持主なら、料亭の主人から軽蔑の眼で見られる。――アラビアの砂漠では、一人の妻しか持ち得ない弱体の王族は、恐らく同様な眼で人々から見られるだろう。
 ところで、上海のその料亭で陶然とした私の心に浮んだものは、胃袋とか、結婚とか、戒律とか、つまり、緯度や経度で異る習俗道徳のことではなくて、イブン・サウドがその素晴しい芝居によって自らを素晴しい男性だと証明し、ために兵士等が俄然勇み立ったという一事である。それは単に男性的な力というのでは言い尽せない。――一種の砂漠の幻影であろうか。

      B

 モーリアックが書いてる大体次のような一節が、ふと私の目に止った。
「……或る作家たちは、その小説の舞台面として、自分が全く知らない町などを選び、構想に必要な期間だけそこのホテルに滞在する、などと語るけれど、そういうことは私には不可能のようだ。全然見知らない土地に、たとえ長い間落着いていても、それは私には何の役にも立ちそうにない。私が常に暮してきた場所に、事件を据える時、それは初めて私の精神のなかで生き上る。私は室から室へとそれらの人物の跡をつけなければならない。往々にして、彼等の容貌は不明瞭であり、その映像しか分らないこともあるが、それでも私は、彼等が通りすぎる廊下の黴くさい匂いを感じ、昼や夜の或る時間に、彼等が玄関から出て行く折、彼等がどんな匂いを嗅ぎ、どんな音を聞くかについては、何一つ知らないことはないのである……。」
 つまり、作品の構想に必要なのは、作中人物についての可見的知識よりも、彼等が動き廻る場所についての明確な実感的知識の方が、より大切だというのである。
 作家の書いた文章などというものは、そのまま迂濶には信じられない。モーリアックの右の文章にも、或は何等かの自己弁護の下心があるやも知れない。けれども、右のような事柄は、実際多くの作家が経験するところであろう。いろいろな作品のなかから、たとえ断片的にせよモデルを探すならば、人物についてよりも、室や家屋や街路や野原や川や海などを含めた広義の場所について、如何に多くのものが見出されることであろう。
 不思議なのは、場所に対する吾々の感覚である。
 私は面白い話を聞いた覚えがある。――寄席の舞台で、即席記憶の実演をやってみせる者が、以前はよくあった。一は煙草、二はビール、三は時計、四はナイフ……という工合に客の任意に指定させておいて、さて、三と云えば時計という風に直ちに答えるのである。ところで、その記憶の仕方だが、品物と数字とはなかなかくっつけられるものではない。最も容易く覚えるには、自分の自宅から一軒目二軒目三軒目と、はっきり頭にある人家を規準にして、一軒目のあの家には煙草、二軒目のあの家にはビール……という工合にくっつけるのである。少しく練習すれば、自分でも驚くほど上達するそうである。――誰から聞いた話だか、今私は覚えていない。即ち、その人は忘れてしまったが、その方法、人家ということはよく覚えている。
 また、吾々が日常通る道筋、例えば自宅から電車停留場まで行く街路や、勤務先まで行く交通機関や、梯子酒の常習者ならばその飲みまわるコースや、広い家屋ならばその奥の室から湯殿へ行く廊下など、それが一筋でなく幾筋もあり得る場合に、何かのことで一度決定した時、人は大抵いつも同じ道筋を倦きずに繰返すものであって、その習慣は容易に破り難い。犬に等しいのである。
 だから……と云ってはあまり飛躍しすぎるけれども、リイラダンの「ヴェーラ」に於て、ダトール伯爵はその最愛の夫人ヴェーラの死後、その居室を彼女の生前の状態通りにし、彼女と二人で暮していた時と同様の日常を続け、そこに閉じこもっていたところ、遂にその室――長椅子、衣裳、煖炉棚、宝石、香料、寝台、花瓶、ピアノ、楽譜、窓掛、其他さまざまのもの、その全体が、彼女の生前同様の雰囲気で生き上り、その中心にある空虚が、次第に凝り、彼女の形態を取り、そこに彼女が身を置けば凡て満たされるばかりになり、而も未だその空虚はそのまま、じっと持ちこたえられて、今や極限に達し、崩壊の危機の瞬間に、彼女と全く同質のその空虚は、忽然と彼女を出現させた……。
 場所は空虚を許容しない。全部崩壊か空虚填充があるのみである。――幻覚を以て譬うれば、長い不在の折など、自分が日常坐り続けた自室の、自分がいないその丁度空しいところに、自分の姿がじっと坐ってはいないであろうか。

      C

 猫はその習性として、始終自分の身体をなめている。あのざらざらした舌でなめるのだから、ともすると毛が唾液と共に嚥下され、その毛がどうかして胃袋のなかに停滞することがある。すると猫は草の葉の尖いもの、芒や茅などのような葉を、短く噛みきっ
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