文学から文学の衣を剥ぎ取ることは、文学を「文学以前」のものに引戻すことである。そして、「文学以前」に引戻された文学を、文学の過剰に食傷していた一般大衆は、喜んで迎えた。
 然しながら、これが度重って繰返され、公式的なものになる時、一般大衆のうちの文学的読者層は、再び文学を要望するようになり、作者の方でも、文学的労働としてのディレンマに陥る。
 初めから文学として発生しなかったものならば、問題はない。或は、在来の文学的概念とは異った概念を持ってくることも、可能であろう。然しながら、新らしい階級の新たな文学として――やはり文学として――生産される以上、そして同一種類の生産がくり返される場合、一方には、数量的に、需要に超過する供給を来し、他方には、品質的に、生産工程に於ける「文学の過剰」を来す。
 そのために「文学以前」の文学から文学への復帰が企図される。然しながらこの企図は、生産工程から見れば、かかるものを制作しようというその意図から来る品質的「文学の過剰」を、免れさせる結果になる。ブールジョア文学が、「文学以後」のものから文学へ復帰しようと企図する時、「文学の過剰」を振い落す結果になるのと、同様である。
 そこに、文学の本道が見られる。
      *
「天才は努力である。」――というこの言葉は、断じて、文学的生産技能に適用してはならない。主義主張が――創作態度が――現実に対する批判の規準となっている間は、生産技能のうちには、種々の文学以前のものが含まれている。然しながら、製造工場の中に於ける生産技能の修練は、決して「天才」に到達する途ではない。
 ポール・ヴァレリーやアンドレ・ジィドや、近くは寺田寅彦氏などを、誰か熟練工と云い得る者があろうか。彼等の深い直観力と鋭い智力との平衡調和は、決して生産技能修練の努力からは得らるるものでない。それは天稟に由るところもあるであろうが、「文学以前」に於ける精進に俟つところが多大であろう。
 更に進んで、「身を以て書き、血を以て書く、」ということは、文学に於ては、「文学ならざるもの」――或は「文学以前」のもの――へ直接関連する。そしてこの関連が弛むに随って――間接的になるに随って――作品は魂から手先へと、手先からペン先へと移ってゆく。
 余りに文学が多すぎる。文学の過剰から文学の貧困を来している。――こういうことを、現在の所謂芸術派についてもプロレタリア派についても、ごく一部分を例外として、云い得られないであろうか。もし云い得るとすれば、この危機を救う途は「文学以前」に文学を引戻すことであろう。
 最後に一寸、或は不用な一言を附加すれば、この論旨は、文学の内容と表現とは云々というようなところから見られては困るので、筆者は、そのも一つ先の立場に立っているつもりでいる。なお、この論旨を徹底させるには、文学の目的論にまでふみこまなければならないけれども、それは蛇足であろうから止める。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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