淋しさをしぼり出して、からのチューブの様になって深いねむりにおちた。
[#ここで字下げ終わり]
右の文章を、人は何と思うであろうか。「太陽は金色のちかちか光る足で飛び込んでき、」「森の中は扇をたたむようにぱたぱたと暗くなり、」「夜は蛭に似た口で昼の暖かさを吸い取り、」「彼女はからのチューブのように眠る、」……そうした描写はともすると反感を懐かせるものであるが、ここでは反って興味を持たせるか、或は少くとも快い微笑を催させる。所以は、文学の過剰から免れているからである。
実は右の文章は、椋鳩十氏の「山窩調」からの引用である。「山窩調」は椋氏が祖父からきいた山窩生活の話を書きとめたものの由で、文学的作意で書かれたものではない。たとい文学的作意が多少あったにせよ、畢竟「文学以前」のもので、文学の過剰などはつゆほどもない。それにも拘らず、否それ故にこそ人を惹きつける特殊の魅力を持っている。――と、こんなことを云うのは、私が文学に食傷しているせいであろうか。
もう一つ実例をもち出してみよう。
横光利一氏の「思い出」を読んだ者に向って、どういう場面が一番頭に残ってるかと尋ねたら、恐らく答え
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