。文芸を取扱う新聞雑誌に発表されてる多くの文章、追憶や思い出は、単なる昔話に終ってるのが大多数で、批判的要素の欠乏が甚だしい。全くそれは単に懐古的な気分から生れた過去のお話に過ぎない。ごく少数のものを除いて、幾多の文章や、談話会の記事など、例はいくらも挙げることが出来る。
文壇に於けるこの懐古的気分には、種々の誘因があるかも知れない。「明治文化研究」其他の真面目な研究団体からの気運の波及、明治維新以後の史実に手をつけ初めた大衆文学からの影響、実話物流行の一つの派生的な現われ、或は、近頃の名文章たる谷崎潤一郎氏の「若き日のことども」などからの影響、其他種々のものが数えらるるであろう。
然し、それらと全く性質の異った一つの誘因を、私は認める。そしてそれがこの小文の主題でもある。
懐古的気分から生れた追憶や思い出、過古に対する枇判が欠乏し、未来に対する進展力が更に無い、単なる昔話、そういうものが頻繁に現れるということは、どこかに、一種の停滞があることを暗示する。どこかに、一種の淀みがあることを思わせる。之を逆に云えば、何等かの停滞や淀みから、懐古的な気分が生じ、批判の乏しい進展力のない
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