え見受けられる。
 然しながら、そういう場合に於いても、彼等の精神の集中力は、作品の中にじかに彼等の魂を乗り移らして、内心の翹望や憤激や情熱をにじみ出させる。前例を追って云えば、世態風俗の撮影のための描写とも見えるバルザックの或る種の作品や、心理の解剖説明のための叙述とも見えるドストエフスキーの或る種の作品にも、なお、作者の生活意欲を離れては説明出来ないような、特殊な進展力を人に伝える熱量を含んでることがある。
 かかる熱量の移植は、文学職工としての技術から来るのではなくて、直接にその「人」から来る。この間の秘密を、アンドレ・ジィドは他事に託して云っている。――

[#ここから2字下げ]
 文学に於いて、自己を怖れるとは、何というばかげたことであろう。自己を語ること、自己に関心を持つこと、自己を示すことを、怖れるとは。(フローベルの苦難の行の必要は、彼に、この偽れる悲むべき効果を考え出させたのである。)
 パスカルは、モンテーニュに、己を語ると云って叱責した。そしてそれを滑稽な痒がりだとした。しかし、彼自ら、自分の意に反して、そういうことをした時ほど、彼が偉大であったことはない。彼がこう書くとする。「キリストは人のために自分の血を流した。」と。その彼の言葉は、何等の効果をも持たずして落ちる。だが、「私は」という言葉がはいって来るや否や、すべては生きてくる。そしてこの神が彼の許に来るならば、彼を君僕で呼ぶだろう。「僕は、君のために、こんなに血を流した。」と。この特別の血を、君のために、ブレーズ・パスカルよ……。そうすれば、我々の誰でもが、この讃うべき君僕の言葉使いに、己が理解されていることを感ずるのである。
[#ここで字下げ終わり]

 この君僕の言葉使いは、文学の上では直接には為されない。然しながら、そういう言葉使いが為されてるかどうかは、読者の胸に伝わるものである。そしてそれによって読者は、作者の意欲の性質を感ずるのである。
 これは文学の深奥な道である。然し、感性に訴える、この道は、理性に訴える論説や説教の道よりも、案外短距離である。
 これだけの蛇足を添えて、さて本旨に戻って――文学の曇天は、文学を益々跼蹐させ、衰微させるだけである。それ故、その雲を吹き払い、影を消散せしむるだけの意欲を、文学自身も持たなければならないだろう。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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