なまた政治的な老衰が、老衰につきものの動脈硬化を来し、その動脈硬化がこの場合には生命硬化となり、統制の側に於ける焦慮と剛直とを伴って、ファッショ的傾向となって現れ、それが全面的に進出してきたこと、そのことではないだろうか。
 私は今茲に、政治や社会を論ずるつもりでは毛頭ない。然しながら、文学の曇天を感ずるが故に、その曇天の由って来るところを探ってゆくと、右のようなことを考えざるを得ないのである。
 そこで、文学を曇天より救うには、右のような生命硬化から来るファッショ的傾向と絶縁して、それから来る陰欝な影を受けない日向へ、文学を持出すより外に、方法はない。
 このことは果して可能であろうか。可能ならしむるためには、現実に対する特種な把握の仕方が必要であろう。そして、社会的存在のみが吾々の意識を決定する唯一のものであるとするならば、問題は簡単になると共に深刻になる。また、文学者の率直赤裸な意識に、或る種の進展性と飛躍性とを認むるならば、問題はわりに手近なものとなると共に複雑になる。だがいずれにしても、憂欝な自由主義者たるだけでは足りないだろう。
 晴天の日には南の窓を閉め、曇天の日を喜び、雨の日を歓迎して、そして仕事をするようなことは、文学を益々曇天ならしむるばかりである。――とこう云うのは、勿論比喩的な云い方であって、作者には各人各様の仕事癖があろうけれど、作者としての心境が右のようなものである限りは、文学は決して日向に出るものではない。そして茲で云いたいのは、文学の前方に立ちはだかって大きな影を投じてるものを、つきぬけるか打ち倒すかするだけの意欲を、文学者自身も持つべきであるということである。そうしてはじめて、文学にも溌剌とした息吹きがこもってくるであろう。
 そして文学に於いて問題となるのは、この意欲の表現の仕方だけである。このことについて、蛇足ながら――というのは、文学を文学たらしむるために――一言つけ加える必要がある。
      *
 文芸のために生涯を捧げて黙々と歩み続ける人々の努力には、真に涙ぐましいものがある。そして、よい作品を書くということだけが、彼等の目的の凡てであって、他事は敢て問わないようにも見えるばかりでなく、例えばバルザックやドストエフスキーのような作家にあっては、時として馬車馬のように駆り立てられ、ただ書かんがために筆を走らせたような点さ
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