ものは、ただ構想力のみである。
 構想は本来、小説を面白くするものではない。場合によっては面白くなくさえもする。それでも構わず、吾々は常に構想力を要望する。これなくては、新たな性格の探求は出来ないし、性格の立像的描出は更に出来ない。構想力の旺盛なるあまり、たとえ作品が面白くなくなっても一向に差支えない。
 斯かる理解を前提として、構想の動きとか発展とかは考えられなければならぬ。さもなくば作品は低俗に堕する。単に平面的な筋の動きだけに終始する。この間の消息は、論文に於ける筋の発展と比較して考察されることが出来る。面白くない論文は、序論から結論に至るまで同一地点に立っていることが多い。中間はただ漫然と平面的に歩き廻るだけである。この種の漫歩を如何に多くしても、真の面白さは得られず、それは却って全体を講議録的な低俗さになすのみである。論文に於ける筋の発展は、構想の発展に裏付けられたものであることを要する。三木清の本格的な論文にそれを見出すことは幸である。
 論文に於ける筋の発展、構想の発展を、吾々は小説にも考える。ここに至って、立像は動き出す。単に動くばかりでなく、動くにつれてそれ自身が成長
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