文学に於ける構想力
豊島与志雄

 文学は真実なものであらねばならぬこと、勿論である。この真実は、事実という言葉で置換出来ないことが明示する通り、現実の転位の場にあるのであり、現実の事実の面にあるのではない。
 嘗て、文学の虚構とか小説の嘘とかが説かれた。この虚構も嘘も、不真実を意味するものではなかった。それはつまり、文学が現実の転位の世界に生きてることの例証である。
 このことを、真面目な読者は感じているであろう。例えば、「悪霊」でスタヴローギン公爵の縊死に出逢い、或は更に写実的なものとされる作品、「ボヴァリー夫人」で、夫人の服毒死に出逢っても、読者は、彼もしくは彼女の現実的な死滅に当面しはしない。当面するのは彼等の生活破綻の結末現象にである。読者の誰も彼等の死体に取り縋って泣きはしない。彼等はそこに現在、そしてまだ将来にも、生きている。死は現実の転位の場にある。
「麦と兵隊」及びそれと同系列の作品は、記録的なものとされている。確かに記録的なものではある。然しそれが持つ真実性とか誠実性とかいうものは、事実の面にあるのではない。最も迫真力ある焦点的な場面が、如何ほど事実の線から構成の線
次へ
全12ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング