かされはしない。人生記録は既に遠くの彼方に眺められる。それの改装した人間記録も、可なりの彼方に眺められる。この距離感は、立場の移転を示す。
新たな出発に当って、吾々の立場の移転は種々のことによって知られる。例えば、最近まであれほど身近に感ぜられたアンドレ・ジィドが、今は可なりの距離に遠退いている。これは初期と中期との彼の作品について言うのである。あの精緻な追求や仮託は、吾々にとって一時の道連れに過ぎなかった。ポール・ヴァレリーについても、吾々はもはや同じ呼吸を保ち得ない。それらのことを、現代の文学者たちの各人について考えてみる時、吾々は今、新たな立場に在ることが認められるであろう。古典的な大作家に対する親易な気持ちは、文芸復興期に現在があるのでない以上、却ってこの新たな立場の立証ともなる。
誰と共に吾々はいるのか。誰と共にもいない。出発に当って、道連れは何なのか。恐らくは原子爆弾であろう。軍事や政治の面に於て言うのではない。文化という自慰的な旧衣を脱ぎ捨てた文明の面に於て言うのである。
原子爆弾は象徴的である。爆弾そのものに対して人道などを持ち出すのは、寝言に等しい。原子爆弾に象徴されるこれからの時代は、想像に余る可能性と驚異とを含んでいる。そこに踏みこんで文学は、如何に自らを処置せんとするであろうか。
人間の性格は、形態として理解される。外部の刺戟や内部の衝動によってその人が為すところの、思惟や言行の総和は、その無数の集合によって内部が充実され、一つの形態を取る。この形態が即ち性格なのである。性格によってその人の思惟言行が規制せらるるというのは、逆な見方であって、思惟言行の総和によってその人の性格が決定せらるるというのが、本来である。文学に於ても、斯かる性格だから斯かる思惟言行が為さるるとは演繹せず、斯かる思惟言行が為さるるから斯かる性格だと帰納する。性格描写とはつまり思惟言行の形態叙述である。
如何なる悪人も斯かる場合には善行をなし、如何なる善人も斯かる場合には悪行をなすということが、人間味の名のもとに作品の主題となったことがある。また、如何なる英雄も斯かる場合には凡庸な行為をなし、如何なる凡庸人も斯かる場合には勇壮な行為をなすということが、凡人主義の名のもとに作品の主題となったことがある。また、人はおよそ如何なる行為をも為し得る可能性を持つが、茲に
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