。嘘じゃないよ。」
 彼女は私に縋りついたまま、胸を大きく波打たせた。
「いや、そんなこと。もう言わないで。この室、あたし怖いわ。」
 ふいに、全く自分でも思いがけなく、私は心の中で言った。「それ見ろ。」
 彼女に向って言ったのか、自分に向って言ったのか、それは私にも分らない。それ見ろ。たった一言、それで充分だった。何だか分らないが、何かに、復讐してやったようで、すっとした。そして私は彼女を抱き寄せ、やさしくキスしてやった。それでもあとの空虚が、肌寒いような淋しさで、そして恐ろしかった。危い。情死……ばかな。私は彼女の胸に顔を押しあて、化粧の残り香をかぎ、肌の温みを呼吸した。それでも、なにか空しい。
「ねえ、僕の眼を見るんだよ。僕は君の眼を見るから。眼と眼と、じっと見合うんだ。」
「いや、そんなこと、いやよ。許して。」
「これっきりだ。一度っきり。」
 むりに顔を挙げさせて、彼女に私の眼の中を覗かせ、私は彼女の眼の中を覗いた。然し、先刻のような感銘は聊かも得られなかった。彼女はおのずから微笑み、私もおのずから微笑んでしまった。だらしがない。然し、それで、危機がもしあったとしたら危機は去
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