火鉢も、三味線も、衣桁になげかけられてる衣類も、其他すべて、ぼーっとくすんでいる。赤塗りの本箱の上に、花器に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してある菊は、葉がしおれかけ、白と黄の花輪も艶を失っている。彼女自身、枕頭近くの水差やコップと同じよう、呼吸もないほど静まっている。
 その、彼女の眼が、いつ開いたのか、両方とも大きく開いて、私の方へ向けられていたのだ。あ、私は息をつめて、その眼に見入った。睫毛を上下にはねて、ただ黒々と、底知れぬ深さを湛え、その深みの奥へ奥へと私を引きずり込もうとしている。
 とっさに、私は思い出した。いつの頃とも、誰とも、それは分らないが、私は同じような眼を見たことがある。死体の眼だ。病死か変死か、それも分らないが、或る死体の両眼が、ぱっちり開いて、じっとこちらを見ていた。そして私を、私全体を、その真黒な底なしの深みへ、引きずり込もうとしていた。抵抗出来ない眼だ。死体の眼はつぶっていなければいけない。開いたままにしておいてはいけない。あまりに恐ろしいことだ。
 その眼が、いま、そこにあった。彼女は寝たまま、身じろぎもしなかった。息もしなかった。死んでるのか。いや、両眼を開いてることだけに生きて、私をじっと見ていた。
 突然、私は竦んだ。言い知れぬ恐怖に囚われた。言葉も出なかった。じりじりと、逃げるつもりか、乗り出してその眼を押えるつもりか、或は雪洞の明りを消すつもりか、自分でも更に分らないが、ただじりじりと動くつもりで実は、ぱっと飛び上ったらしい。
 瞬間、私はひどい衝撃を受けてぶっ倒れた。後で分ったことだが、私の横手に小机があり、茶菓用の陶器や硝子器がのっていて、私はそれにぶっつかり、器物を破損し、腕を傷つけ、倒れるひょうしに頭を強打した。酔ってる時には人は怪我をしないものだと言われるが、これは嘘らしい。時と場合に依るものだろう。もっとも、私の怪我は大したものではなかった。

 傷の手当や後片付けがすむと、私と照代は、炬燵に火をいれてあたり、あらためて酒をくみ交した。一時は喜久ちゃんまで起きてきたが、やがて、お多賀さんとともに寝てしまった。
「ご免なさい。ね、許して。あなたが、そんなに真剣に、愛していて下さるとは、思わなかったのよ。あたし、もう何もかもいや。どうなったっていいの。あなた一人、ね、あなた
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