限もなく続く応待の仕方などは、今では甚だ珍妙なものとなってしまった。街頭で夫人同士が出逢って、そういう挨拶をしてるうちに、洋髪のピンが弛んで、付髷が地面に落ちたなどということは、数年前のことながら、今では昔の笑い話としか受取れない。
 今では、若い懇意な間柄では、いきなり握手をすることさえ行われ、それが相当身についてもきた。だが不思議なのは、最も伝統的な古い組織の中に生きてる芸妓仲間では、往来などで行き合う時、立止って話をする必要もない場合には、頭と目差との僅かな微妙な動かし方だけで、一切の挨拶が済んでしまうことになっている。こうした作法の簡易化は、決して礼儀の乱れたことを意味するものではない。
 所謂遊ばせ言葉は、上流婦人の間でも急激に退化しつつある。だが、「さよなら。」の意味で使われる「御機嫌よろしゅう。」の一語は、充分に生きているし、殊に電話などで最後に云われた「御機嫌よろしゅう。」は、快い響きを耳に残す。
 作法や言葉は、殊に女の場合、身につくかつかないかということに微妙な問題がある。それは各個人的なそして全身的な事柄であって、抽象論は用を為すまい。女にとって最も非美的なのは標準作法や標準語であると、こう逆説的に云えば、それは女を文化的に軽蔑したことになるであろうか。

      I

 ラジオの演芸のために、晩酌の習慣がついたとか、或は晩酌の銚子が一本殖えたとかいう話を、屡々聞く。
 凡そ晩酌ほど愚劣な風習はない。フランス料理につき物の葡萄酒と違って、日本酒は、必ずしも日本料理につき物ではなく、単にアルコール性飲料との意味合を多分に持つ。その日本酒を家庭で毎晩、而も家長或はそれに類する人だけが摂取するということは、隠居という観念が死滅した現代では、全く意味を為さないばかりか生活力の減退を来す。禁酒の必要はないが、晩酌の禁止は必要である。健康上から云っても、毎晩一定量の酒を飲むことよりも、一週に一回ほど徹底的に飲酒する方が、まだ無害であり、殊に精神的にはそうである。
 この晩酌を助長するようなものが、ラジオの演芸放送に果してあるのであろうか。罪は勿論、晩酌をする本人にあるであろうし、或はラジオの聞き方にあるであろう。だが、演芸と云えば、恐らく日本演芸のことであろうし、日本演芸には、酒の座席にふさわしい情緒、或は生活逃避的な気分が、伝統的にあった。昔は、歌舞伎芝居も飲食しながら見物されたものであるし、講釈も昼席で枕をかりて寝転びながら聴かれたものである。所謂国粋的演芸ばかりでなく、現代の流行小唄が如何なるものであるかは、人の知る通りである。
 現代の苦渋な生活に、慰安や娯楽は固より必要である。また、殊に現時の事変下の生活に、晩酌は断じて不用である。この間の矛盾を解決するものは、恐らく将来の科学的テレヴィジョンでもあろうか。ラジオの放送当事者も聴取者も、一考すべきであろう。

      J

 日本人には含羞的性質が多分にあると云われている。世間体とか人前とか体面とかいう事柄に対する関心は、その現われであろう。然るに、この含羞的と凡そ反対なものの一つに、洗濯物の処置がある。身につける如何なる物も、それが洗濯盥から出て来たものでさえあれば、屋上や軒先にへんぽんと飜えして憚らない。高架線の電車の窓などから見られる東京市の壮観は、洗濯物羅列を以て第一とするとさえ云われる。
 入浴を好む者はまた洗濯をも好む。否、これは好みではなくて、既に身嗜みの一つであろう。羽二重の裏をつけた木綿の半被をひっかけ、素足に草履をつっかける、そうしたいなせな風姿が昔は市民の風俗のなかに確立されていた。この羽二重の裏も素足も、特殊な身嗜みから出発したものであろう。如何に襤褸をまとおうとも、肌には垢をためず、肌につけるものは清潔にしておくということが、一つの矜持として、根深い伝統になっている。首を切る或は切られることが、首筋を洗って云々の言葉で表現されるには、かかる風習の裏付けがあって始めて可能であろう。現在でも、衣類の襟垢の有無は、人柄を判断する一つの鍵とされることがある。庶民の家婦の仕事のうちで、洗濯は重要な部門となっている。
 然るに、洗濯物の処置については、一向に考慮が払われていない。これは、日本の家屋が、都会にあってさえ、集団住宅でなく個別住宅である故もあろうし、また湿潤な気候のために、壁の中に窓があるのではなく窓の中に壁があるという、そうした構造になっている故もあろう。かくして常に、屋上や軒先に洗濯物がへんぽんと飜えり、此処だけは、世間体とか体面とか羞恥心とかは打忘れられて、自他共に怪しまない状態になっている。
 アパート其他の集団住宅では、既に、洗濯物の処置について多少の考慮が払われているようだが、それも全く、多少のという程度に過ぎない
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