父母に対する私情
豊島与志雄

 私は初め、父と母とのことを書くつもりだった。そして愈々ペンを執って原稿紙に向うと、それが書けなくなった。
 父と母とに対する私の感情のうちには、何かしら神聖なるものがある。その神聖なるものが、父と母とのことを書くのの妨げとなる。父と母とを自分からつき離して客観的に眺め、具体的に描写し、それを公表する、そういったことを今の私は為し難い気持でいる。或は今後、父と母とのことを、父と母とに関係ある何かのことを、小説や随筆などの中に、書くかも知れないしまた書かないかも知れないが、今の気持ではとても書けないしまた書きたくもない。
 私の父と母とは、私のものである。而も私の胸の中の最もよき部分に、手を触れたくない神聖な奥殿に、祭りこまれてるものの一つである。畏敬すべき尊いなつかしい記念、そういった感じのするものである。それに手をつけてあばき出すことは、今の私の本意ではない。
 私情をすてて赤裸々な心で物を書くことが、芸術にたずさわる者の態度であるべきことを、私は知らないではない。然しながら、そういう態度の上に――もしくは奥に、強く燃えてる熱意こそ、芸術の生命であるこ
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