とに失敗していて、財産どころか莫大な負債を持ってるのを知った。それで私は、学校を出るとすぐに自活しなければならなかった。先輩の紹介で学校の教師をし、傍ら創作をしていった。そしてなお金が足りないと、可なり向う見ずな借金をした。随分苦しい生活だった――今でもそうであるが。それでも私は呑気で且つ力強かった。莫大な負債を荷いながら呑気に落付いてる父の殿様然とした気質、それが私にも伝わっているようだけれど、然し父のそういう気質を思うことは、やはり私には力となった。負債なんかどうにだってなる、兎に角私は力強く働いている、という気持を父に伝えたかった。そして実際、次第に大きくなる負債のことは隠したが、俸給と原稿料とで立派に生活してると父へ云った。父は非常に喜んでくれた。もう心配はないとも云ってくれた。
私は力強く働き続けた。朝早く込み合った電車にゆられて、毎日出勤しなければならなかった。午後になって帰ってくると、頭も身体も疲れていた。それでも晩には、頼まれるままにせっせと原稿を書き、なおその上に飜訳までやった。実際いやになることが多かった。生活するために人はかくまで働かなければならないかと、人生が味気なく思われることが多かった。そしてそんな時、父を思うことは私の力となった。何故だか私自身にも分らないが、父を思うと必ず私は、この通り立派に働いて暮しています、とそう父に云いたい気がしたし、どんなことにもへこたれるものか、という勇気が湧いてくるのだった。
それは、父を安心させ慰めたいのとは違う。男の意気地とも違う。しっかりしていなければ父に済まない、そういった気持である。お父さん、あなたの子は健在です、立派な生き方をしています、と父に向って――天に向って、叫びたい気持である。
母に対する感情は、常に私をしみじみと落付かせてくれる。
私は嘗て、頽廃的な自暴自棄な生活に陥りかけたことがある。尋常なことは凡て面白くなくなって、何か非常識な突飛なことばかりに心惹かれた。明るい輝かしいものが厭わしく、暗い悲惨なものばかりが好ましかった。昼間はぼんやりと下宿の室に籠っていて、夜になるとのこのこ出かけてゆき、都会の暗い穴を探し求めるような気で、酒を飲んだり彷徨したりした。最も多く狂人に出逢ったのも、最も多く無駄な金を使ったのも、最も多く健康を害したのも、最も多くドン・ファン的な気持になったのも、みなその頃のことだった。また嘗て私は、ひとなみに恋をしたこともあった。はっきり自分の意中を打明けることも出来ず、はっきり相手の気持を掴むことも出来ず、ただ胸苦しい悲しい甘い心地に沈み込んで、草原の上に寝転んでは、すいすいと伸び出してる草の芽を無心に掴み取りながら、いつまでもぼんやりしてることがあった。
そういう時、悪魔的な暗澹たる気持に浸ってる時や、切ない悶えに悩んでる時など、私が兎も角も余り変な方向へ踏み迷わないで、どうにか自分の道を歩み続けてきたのは、母に対する感情からでもあった。
母を思うと、私は心がしみじみと落付いてきた。何をするのも嫌になり、生きてるのさえ嫌になって、死を決しようとしたり、または狂暴な感情に駆られたりする時、私はよく母のことを思い出した。すると私自身そのものが、取るに足りないちっぽけなものになって、母の温い懐の中に飛び込んでいった。何かこう大きな柔かいもの、自分を生んでくれた母胎、そういうものに静によりかかった気持だった。そしてただ在るがままのちっぽけな自分自身が、しみじみと感じられていとおしくなった。何がどうなろうと構うものか、私はここにこうしている、というその最小限度の存在感、云わば、富貴を願わず栄達を求めず、一介の虫けらに等しい自分自身の存在感、それが胸の底までしみこたえた。自分自身がいとおしく自分の生がいとおしかった。そして私はじっと自分を愛護する気持になって、その気持を母に伝えたくなるのだった。
それは、母を安心させ落付かせたいのとは違う。母に甘えるのとも違う。生れたままに生きていたい、そういった気持である。お母さん、私はここにこうしています、自分の在るがままの生を愛して生きています、と母に向って――大地に向って、囁きたい気持である。
然しながら、自分の胸の底を、も一つ奥深く覗いてみると、右のように二つに分けられないものを、父と母と一体をなしてるものを、其処に見出すのである。それのことを思うと私は、何かしら神秘的な涙ぐましい而も力強いものを感ずる。
平素私はそれを忘れがちである。今では私は、ただ輝かしい健かな世界を求めて自分一人で生きている。然しどうかした拍子にふと父母のことを思うと、自分に生を与えてくれた両親のことを思うと、そしてそれに思い耽っていると、明るくもなく暗くもなく、健全でも不健全でもない、或る隠秘な仄か
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