ばかり前から、癇癪がぴたりと止んで、周囲の人たちの云う通りになった。熱も一度あまり下っていた。腹痛が来ても、顔をしかめるだけで我慢し、すすんで手足をさすらせることもなかった。ぼんやり微笑してるらしい表情さえあった。その静かさのなかには、底に何か不気味なものがある筈だったろうが、周囲の人々はそれに気付かないで、幾分快方に向いてきたと喜んでいた。夜中に、彼がぱっちり眼を見開いて宙を凝視してるのを、看護婦は二度ばかり見かけたが、別に気にもとめなかった。彼は云われるままに、おとなしく催眠剤をのんだのだった。
 後で考えると、その十日ばかりの間が怪しかった。病室には二人の看護婦が交代でついていた。彼の妻は妊娠八ヶ月の身重で、時々しか病院には来られなかった。彼の従妹の矩子《のりこ》という二十三になる女が、毎日やって来て、妹のように看護していた。――だがそれらの三人には、どう考えても、拳銃提供の疑いはかけられそうになかった。
 見舞客はいろいろあった。前後の事情はひそかに探査してる人たち、君の父やその他の数人は固より、種々の知人が来ていた。問題の鍵はその人々の中にある筈だった。
「これは困難だ。」と
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