に悪化して、一ヶ月ばかり後には、全く絶望状態になった。それから一ヶ月ほど後に自殺だ。自殺という点は明瞭なので、警察の方も大した面倒なくて済み、一般には病死と発表され、葬儀もとどこおりなく行われた。
だがその当時、近親の者と二三の親友の間では、重大な問題として、その拳銃の出処が探索された。君の父もそれらの人々の中の一人だった。
その頃秋山は、もう声が殆んど出なかった。食慾もないと云ってよいくらいで、ひどく衰弱していた。療養の仕方もなく、生命は単に時の問題だけだった。幸か不幸か、不思議にも肺の方は比較的健全だったので、それでもち堪えてるとも云える状態だった。秋山は以前、医学専門学校に一ヶ年半ばかり通っていたことがあって、医学上の多少の知識があった故か、自分で自分の容態をはっきり意識していた。その上声が殆んど出なかったので、時々激しい癇癪を起した。服薬を拒んだり、コップを投げつけたり、布団をけとばしたり、ふいに起上ろうとしたりした。夜中寝台からはい下りることさえあった。それ以外の時は、ひどく静かで、何を云ってもただ諾くだけで、心をどこか遠くにやって瞑想してるかのようだった。
死ぬる十日ばかり前から、癇癪がぴたりと止んで、周囲の人たちの云う通りになった。熱も一度あまり下っていた。腹痛が来ても、顔をしかめるだけで我慢し、すすんで手足をさすらせることもなかった。ぼんやり微笑してるらしい表情さえあった。その静かさのなかには、底に何か不気味なものがある筈だったろうが、周囲の人々はそれに気付かないで、幾分快方に向いてきたと喜んでいた。夜中に、彼がぱっちり眼を見開いて宙を凝視してるのを、看護婦は二度ばかり見かけたが、別に気にもとめなかった。彼は云われるままに、おとなしく催眠剤をのんだのだった。
後で考えると、その十日ばかりの間が怪しかった。病室には二人の看護婦が交代でついていた。彼の妻は妊娠八ヶ月の身重で、時々しか病院には来られなかった。彼の従妹の矩子《のりこ》という二十三になる女が、毎日やって来て、妹のように看護していた。――だがそれらの三人には、どう考えても、拳銃提供の疑いはかけられそうになかった。
見舞客はいろいろあった。前後の事情はひそかに探査してる人たち、君の父やその他の数人は固より、種々の知人が来ていた。問題の鍵はその人々の中にある筈だった。
「これは困難だ。」と君の父は云った。「当人が自白してこない限り、皆の者が互に疑うだけで、きりがつかないだろう。」
その通りに違いないのだ。そして皆でその中の一人一人を順々に取調べるわけにもいかなかった。銃砲店を少し聞き合せてみよう、と父は云いだして、新らしく買ったのでないことの明かなその拳銃を預った。
だが、彼は拳銃を預っただけで、銃砲店の方は少しも聞き合せなかった。それよりも彼は初めから、矩子の様子に眼をつけていた。
自殺は夜の明け方になされた。知らせを受けて、彼がかけつけた時には、死体はもう綺麗に始末してあった。彼はその顔の白布をとって眺めた。弾は口腔内の上顎から後頭部にはいって、一発で即死とのことだった。まったく生きてた通りの顔付で、死相というものが殆んど見られなかった。眉根によってる深い皺と、つぶった眼瞼のまるい脹らみとがありありと彼の生前の面影を伝え、ただ、口から顔へかけて、ひどくしぼんで淋しかった。
その顔を、君の父は身動きもせず石のようになって、二三分間も凝視していた。死人によりも彼の態度の方に、より厳粛なものがあった。それから彼は死顔に白布をかけて、ふいに、滑稽なほど丁寧に上半身を屈めた。それから全く口を噤み、誰にも挨拶もせず、様子も尋ねず、控室の片隅に蹲っていた。
矩子は後れてきた。死体の側で、さめざめと泣いたらしかった。自殺とのことを聞いて、全身を震わして泣いたが、中途で泣きやんで、幻を追うような様子に変った。泣きばれのした眼が乾き、額も頬も冷く蒼ざめ、その顔全体がひどく美しかった。君の父はその美しい顔にじっと眼をとめて、かすかな微笑の影を頬に浮べ、同時に眼の中に涙をためた。
茲で云っておこう。秋山と矩子とはひそかに愛し合っていたのだ。君の父はそれを秋山から打明けられたのだった。
病室に集ったのは、ごく近親の者と親しい者だけだった。不慮の事件のためには、いろいろ多用だった。君の父は始終沈着で、何かと指図する役目の方に廻っていた。そして常に矩子から眼を離さなかった。
一通りの用件がすむと、枕頭の卓子の上に置かれて誰も手に触れようとしない拳銃を、君の父は取上げてハンカチに包んだ。そして黙って上衣のポケットに入れた。公然となされたその動作を、一人として怪しむ者はなかった。
夕刻、死体は自宅へ帰った。その夜道く、奥庭に面した縁側で、君の父は矩子と短い会話を
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