し合ったことがある。而も、随分せっぱつまった愛情で愛し合ったらしい。そうして或る晩、とても朗らかな笑いをした。
雨にでもなりそうな静かな晩だった。父は前日からその女と逢っていて、まだ互に別れかねていた。愛する者同士の間では、時間が実に早く過ぎ去るし、為すことも話すことも、とりとめないつまらない事柄ばかりだし、だから、いつまでたっても、もうそれでよいという別れの時間が来ない。父もその女も、初心者ではなかったが、愛というものはいつも同じで、いつも若々しい。二人ともいやにしみじみとした気持で、一寸したことにも涙ぐみそうだった。
僕はもうとてもいけない。とそんなことを父は云い出した。始終君のことばかり考えていけない、とも云った。あたしもそうよ、と女も云った。それは当り前のことで、愛し合った男女が相手のことを思い出さないとしたら、どうかしている。
「始終君のことばかり考えてるようだ。たとえば、月を見ると……。」
平凡な言葉だが、それがいやにしっくり落付いて、少しもおかしくなかった。大真面目なのだ。
「月を見ると、先ず君に見せたいと思って、そして一人でつくづく眺める。花を見ると、先ず君に見せたいと思って、そして一人でつくづく眺める。小鳥の声をきくと、先ず君に聞かしたいと思って、そして一人じっと聞く。うまい物をたべると、先ず君にたべさせたいと思って、そして一人でゆっくりたべる。腹が痛むと……。」
とぎれたところへ、彼女がふいに云った。
「腹が痛むと……。」
父は何とも云えない変な顔をした。彼女はくく……と笑って、それから急にははははと笑いだした。父も笑ってしまった。彼女は帯の上をたたき、父は首をかかえて、二人ともいつまでも笑ってやまなかった。
突然のその朗かな笑いが、二人の気分を晴れやかになした。後になっても、「腹が痛むと」という言葉が、楽しい話題となった。
「腹が痛むと……。」がでたらめな嘘であったとしても、それは、前の凡てをでたらめな嘘となしはしなかった。却って前の凡ての真実性をますに過ぎなかった。愛とはそういうものか。最後の一つの嘘で、気持を悪くしたり怒ったりするのは、本当の愛を知らない者のすることだ。
君も、恋人があったらためしてみ給え。もし君の恋人が笑わなかったら、それは、君たちの愛がまだ不安定な証拠だ。
君の父がもし、その時の朗かな笑いのうちに、彼女と一緒に死ぬことが出来たら、或は幸福だったかも知れない。だが、そんな幸福に甘えてはいけない。
正夫よ、窮迫のうちにあった君の父に、君が一の重荷となったであろうことは、君にも想像がつくだろう。
老婢がよく家庭の中を整えていてくれたので、父は君について細かな面倒をみてやる必要はなかった。然し父は時として君の死を想像することがあった。君が風邪の気味だったり、胃腸を少し害ったりする時、父は君の健康に細心な注意を払いながら、それと同時に、君の死を考えることがあった。
それは君に対してばかりではない。両親がある時にはその死を、妻がある時にはその死を、彼は幾度か夢想したことがある。そしてこういう種類の夢想は、一の願望にまで高まる危険性が多い。
それは淡い漠然たる反抗であり、孤独放浪の気まぐれな憧れだった。親を捨て、妻を捨て、子を捨てて、何かに随うというような積極的なものではなく、その随うべき何かが全然欠如した、単なる憧れにすぎなかった。そしてそういう憧れは、逆に、愛情の深さ切なさをしみじみ感じさせるものだった。
父は酒に酔って彷徨し、一晩も二晩も家を空けることがあった。その間君は、老婢と二人の生活をさして淋しいとも思わず、よく食べよく眠った。帰って来た父を珍らしげに眺めることさえあった。父はむっつりした様子で、碌に話しかけもせず、新聞や書信に眼を通していた。が、そうしながら、心で君の方をじっと窺っていた。
そして夜、君がすやすやと眠っている時、幾度か、父の手はそっと君の手を握った。
孤独放浪の旅を夢想しながら、君という重荷があるからそれも出来ないという気持でいた父は、まだ仕合せだったと云えるかも知れない。真に孤独になって、放浪の旅がやはり出来ないことを知るのは、悲惨であろう。
そうした淡い反抗がすんで、それで愛情が一息ついて、そしてまたじっと君の手を握りしめ、君の顔を見入る時、父はその重荷たる君のうちに、如何に強い支柱を見出したことか。人が重荷を支えるのでなく、重荷が人を支えるのだ。
さて、あの奇怪な事件だが、あの時の君の父の態度は実に立派だった。聊かも取乱したところがなかった。
君の家と遠縁に当る秋山が、喉頭結核と腸結核で入院してるうち、或る夜、拳銃で自殺をした。あの事件だ。初め喉頭結核で、次で腸結核の徴候がきざしたので、あわてて入院したところ、病勢は急激
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング