した。
「秋山の死顔は、美しいとは思いませんか。」
 矩子は無言だった。
「苦しんでじりじり死んでいくより、幸福だったに違いありません。秋山のためにも、あなたのためにも……。」
 矩子は硬直したような顔をあげて、彼の眼を見入った。それから突然、そのままの眼からはらはらと涙をこぼした。涙をこぼしながら、彼の眼を見入っていた。彼はその視線の痛みに堪えかねて、顔をそむけた。
「分りました。」と矩子は一言云った。
 その言葉に、彼はぞっと全身に冷いものを感じた。そして彼女を促して霊室の方へ戻っていった。
「あたしのためには、ちがいます。」
 低い声で云われたので、彼が振向いてみると、矩子は唇をかみしめて、小さく首を振っていた。
 それから彼はもう矩子に近寄らなかった。何か復讐に似たものが、彼の胸の中にとびこんできたのだった。現在が大切か未来が大切か、そんなことを彼はぼんやり考えていた。

 正夫よ、秋山が自殺に用いた拳銃は、その後あやふやのうちに、元来の所有者たる君の父の手許に長く溜った。今でも君のところにあるかも知れない。
 それから、後で分ったことだが、秋山の僅かな預金のうちから、使途不明の一千円が、自殺の半月ばかりの前に、秋山自身の筆蹟の小切手で引出されていた。それを銀行から受取ったのは、素人とは見えない様子の女だった。それは前に一寸述べておいた、君の父の愛人なのだ。然しその金は、そっくり君のために使われた筈だ。
 その拳銃とその金とに、若い君は反感を持つだろうか、或は同感を持つだろうか。または、どうでもよい些事だと思うだろうか。
 君の父は、それらのことに思い惑いはしなかった。
 嘗て、君の父が流行感冒の高熱と腹痛とで一週間ばかり寝た時のことを、君は覚えているだろう。君も老婢もしきりに心配したが、父は黙ってじっと寝ていて、君たちが側についていることさえ煩さがった。ただ一人きりでじっと寝ている。それだけが父の望みだった。医者が命じた手当さえもしたがらなかった。そして少しよくなると、誰が何と云ってもきかないで、起き上ってしまい、湯にはいったり外出したりした。
 そういう父のやり方は、秋山に対する行動と矛盾するように思われるかも知れない。たしかにそこには矛盾がある。然し父にとっては何等の矛盾も感じられなかったのだ。ただ、その時々による図太い落付きが得られさえすれば、それが
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