父の形見
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)矩子《のりこ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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正夫よ、君はいま濃霧のなかにいる。眼をつぶってじっとしていると、古い漢詩の句が君の唇に浮んでくるだろう。幼い頃、父の口からじかに君が聞き覚えたものだ。
その頃君の父は、土地の思惑売買に失敗し、更に家運挽回のための相場に失敗し、広い邸宅を去って、上野公園横の小さな借家に移り住んでいた。君の母はもう亡くなっていた。老婢が苦しい世帯をきりもりしてくれた。父は感情の調子で時々酒を飲んだ。陶然としてくると、君を連れて散歩に出た。公園下に、まだ電車が通っていない時分で、木のベンチが並んでいた。
「正夫、見てごらん、星が、きれいだろう。」
そう云って、酔ってる父はベンチの上に仰向にねそべり、小さな君はその側に、足先を宙に腰掛け、或は地面に膝をついてよりかかり、星を眺め、池を眺め、父を眺め、しまいにはうとうとと眠りかけるのだった。蚊が多かった。君ははっと眼をあいて、首筋や脛をぼりぼりかいた。父も着物の袖で蚊を追いながら、君の方を顧りみて微笑した。それから中声で詩を吟じた。
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霜満軍営秋気清……云々
鞭声粛粛夜過河……云々
蛾眉山月半輪秋……云々
月落烏啼霜満天……云々
高原弔古古墳前……云々
[#ここで字下げ終わり]
そんな詩を父は好きだった。中学校の教科書の中でそれらの詩に出会った時、君は果してどんな感懐を覚えたか。
父の吟咏の調子は、自己流の怪しげなものだった。然し、空には星が実にきれいに光っている。池には蓮の葉が青々と重畳して、点々として白い花が咲き匂っている。対岸の賑やかな料亭の灯が、遠く、港町のような旅情をそそる。それらのものの中に君の心は溺れながら、またうとうとと眠りかける。山の上の森の中から鐘の音が響いてきても、君はもう眼をさまさない。すると、父の大きな力強い掌が、君の頭にどしんとかぶさる。君はびっくりして、慴えたように飛び起き、父にすがりつく。父は威厳のある眼で母親のように微笑んでいた。蚊にさされたあとが急に痒くなるのだった。
それらの夕の
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