根を下し、人の肺腑を貫く気合の声が出る。大抵みなそうである。そして、これはまさにそうすべきである。
然し、その老人が本当に一流の達人ならば、剣や木刀を手にしなくても、常住坐臥の姿に於て、特殊の感銘を人に与える筈である。それを単なる老人と見るのは、子供の眼に過ぎない。
なぜなら、私の観るところでは、芸の妙諦は体得にある。云い換えれば、一芸一能に秀でた者は、その一芸一能を、おのずから自分の身につけて、それが一の風格とまでなっている。
私の知人に、六十を越した老婦人がある。長唄の名取であるが、単なる名取という以上に、殆んど名人の域にはいっている――と私は思う。唄は岡安派であるが、この方は声が美音でないためにさほどでもない。が三味線の方は絶品である。杵屋門下の逸足で、故六左衛門からひどく重んぜられていたとか。一度撥を取れば、どんなぼろ三味線でも、びーんと男の音締が出る。
その老婦人は、それだけの腕を持ちながら、或る裏町の小さな借家に住んでいて、弟子も取らず、人中にも出ず、貧しい然し安穏な生活をしながら、時々憂晴しに三味線を手にするくらいのものである。
その老婦人に、初めて逢った時、私は一種の感銘を受けた。それは、特殊な性格の人だとか、特殊な経験を積んでる人だとか、そういった感じとは違って、何かしらその人の中に、しゃんと引緊ったものがある。しっかりした心棒のようなものがある、という感じだった。もう髪は薄くなり、歯はおおかた痛んでおり、眼は鈍っており、腰は少し曲っておるけれど、その身体の中に、精神的というよりも寧ろ肉体的とも云えるほどに、何かしらしっかりしたものが残っている。
その感じが、彼女と逢う度毎に次第にはっきりしてきて、具体的な形となっていった。足許が悪くて危げな歩き方ではあるが、一度坐に就けば、ぴたりと落付いたその腰の据り工合……お辞儀をする時の、両手と膝頭との極り工合……腰の曲った猫背加減の老いた胴体ではあるが、片手を膝に置き片手を長火鉢に差出した、その長火鉢と彼女の身体との軽い即き工合……視力は弱り耳も多少鈍ってはいるが、話の受け応えと共に、首筋のしゃんとした、頭の動き工合と鬢の毛の震え工合……其他、普通の老人に見られないような、何かしらしっかりした心棒が彼女のうちにある。
私は初めのうち、彼女の芸を知らなかった。ところが、彼女の三味線の音を聴いた時
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