表現論随筆
豊島与志雄
私達六七人の男女が、或る夏、泳げるのも泳げないのもいっしょになって、遠浅の海で遊んでいた。
一面に日の光が渦巻いていた。空は大きな目玉のようにきらきら光っており、海は柔かな頬辺のようににたにた笑っており、青い松林をのせた白い砂浜が、ゆるやかな曲線を描いて、その海と空と私達とを抱いていた。
人間的な親しい放心のなかに、動物的な遊戯心が踊りはねる。泳げる者の手につかまって、泳げない者がばちゃばちゃやってたのが、いつのまにか遊びにかわって、両手にすくった水をぱっと、相手の頭から浴せてしまった。
「あら、ひとの眼に……。」
頓狂な声を立てたのは若い女である。
でも、眼には僅か二三滴の水に過ぎない。頭から顔全体へかけてざぶりと浴せられた、その何百分の一かに過ぎない。それでも彼女にとっては、その何百分の一だけが、最も直接の感じであったろう。
これを客観的に云い現わすならば、彼女は頭から顔へかけて一杯水を浴せられた。それを彼女自身は主観的に、「あら、ひとの眼に……。」
客観的表現と主観的表現とは、そういうところに截然と区別せらるる。文学上のむずかしい理論を俟つ必要はない。
最も純粋無垢な客観的表現は、童話の世界にあるように思われる。ただ具体それ自身の面白さのために、具体的な認識がそこに行われる。
大勢の子供が集って、蝸牛の這うのを見ていた。頭を長く差伸し、二本の角をふり立て、大きな殻を背負い、銀色の跡を残しながら、垣根の枯竹の上を這ってゆく。
「蝸牛が這ってるよ!」
それだけが子供達の認識である。
蝸牛は何のために這ってるのか。何を求めて、或は何を逃げて、這ってるのか。どこからどこへ這ってるのか。……そういう事柄は凡て、蝸牛が這ってる姿の面白さを害するばかりである。そういう事柄と結びつけられる時、子供達の享楽は薄らいでゆく。
朽ちかかった竹、その上を這ってる蝸牛、それだけを拡大鏡的にぽっかり浮き出させるところに、童話の世界の真髄がある。其他のことは、物語を組立てる上の余儀ない些事に過ぎない。
子供の眼は、具体にだけ止まる。それが大人の眼になると、具体以上のものにまで及んでゆく。
講談本を読むと、剣客物などで、一流一派に秀でたその道の達人は、如何に腰の曲ったよぼよぼの老人でも、一度剣や木刀を手にする時には、腰は伸び足は大地に
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