十分に飲ましてくれる。つまり、手か足か何か大事なものを、ここにいる限りは、自分でもぎ捨てるようなことにならないで済むというわけだ。」
 一同は笑った。愉快になった。そして井野老人の蟹のため、盛んにビールを飲んだ。井野老人はますます楽しそうに酔っていった。
 洋介はいつもの通り、あまり口を利かず、ぼんやり微笑んでいた。ところが、突然、痛いほど私の腕を掴んで、囁くように言った。
「井野さんの蟹のマッチは、あれはこじつけだ。真意は、日本の社会を諷刺[#「諷刺」は底本では「諷剌」]してるのかも知れない。皆がそれぞれつまらないものにしがみついていて、それこそ手か足か何か大事なものを自分でもぎ落さなければならなくなるまで、それを放そうとしない。そうじゃないか。僕の周囲もだいたいそうだ。僕は帰国してきてからへんに息苦しかった。理由はそこにある。もっと自由にならなくちゃいけない。僕はうすうすそのことに気付いて、それとなく闘ってきたが、これからは公然と闘ってやる。」
 彼はひどく腹を立ててるようだった。私の腕を掴んでる力をますます強めた。その顔はなにか皮が一杯むけたかのように鮮かな血の気がさし、眼はぎらぎら光っていた。
「表の店の家賃は現金で払って貰う約束だ。ここの利益も、僕に歩合ではいってくる。生活の不安もなさそうだ。」
 彼はいきなりそんなことを私に打ち明けて、私の顔をじっと眺めた。もし少しでも不賛成か軽蔑かの色を見せたら殴られるかも知れないことを、私は感じた。それと共に、別種の訳の分らない恐怖をも私は感じた。
 彼は私の顔から眼を転じて、大田の姿を捜し求め、指でなにか相図をした。大田は立ち上って、焼酎の瓶を持って来た。洋介は焼酎をビールのコップについで飲んだ。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「展望」
   1946(昭和21)年8月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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