いをしたり、謂わば寄生虫みたいな生活ではないか。千枝子が月給を求めたのは、労力に対する正当な報酬を要求したにすぎない。彼女はただ月給そのものを手に入れてみたかったのであろう。それを、吉村さんや佐竹は、近代人の心理問題だとして議論しているが、ばかばかしいことだ。
「あんな人たちには、食事を出すとしても、握り飯だけでたくさんです。」
いつにない洋介のきっぱりした言葉に、房江は呆気に取られた。それにまた、終りの方の事柄は、彼女がそこに居合せなかった故ばかりでなく、よく腑に落ちなかった。彼女は机に肱をついた掌に額をもたせた。
「いつも家の体面のことばかり考えるのは、お母さんの悪い癖ですよ。これから、ただ人間としての体面だけを考えるようにしましょう。」
房江は眩暈をでも覚ゆるように、両の掌で額を覆った。
洋介は涙ぐんでいた。その涙が溢れかかると、ハンカチで眼を拭いた。
それきり、二人とも長く黙っていた。やがて、二人の眼が合った時、洋介の顔にはなにか靄でもかかったような工合だったし、房江の顔には神経がこまかく震えていた。
それから数日後、波多野邸から高石邸へ、文化研究所は移転した。個人の図書室というほどのものにすぎなかったが、それでも書物や器具など、トラックで運んで終日かかった。
数名の研究所員が手伝いに来た。その中に交って働いてる魚住千枝子は、ひどく楽しそうでまた快活だった。動作も言葉もきびきびしていた。房江も時々姿を見せたが、淋しそうに眼を伏せて黙りがちだった。
その晩、一同を犒うために簡単な酒食の用意が出来ていたが、当然その席に列なる筈の波多野洋介は見えなかった。それから井野格三郎老人も見えなかった。ただ高石庸明老人の頑健な風貌が、上席から一同を威圧していた。
その頃、洋介と井野老人とは、酒場「五郎」でビールを飲んでいた。
井野老人は珍らしく、古ぼけた背広を着ていた。少し頬骨が秀でて見えるくらいに痩せてる細長い顔に、凹んだ小さな眼が、近視と老視と張り合せの強度な眼鏡の奥から、子供らしい無邪気さで光っていた。
「一杯のコーヒーが飲めれば世界がひっくり返っても構わんと、不敵なこと言った男がいたが、私は、一杯のビールが飲めれば世界がひっくり返っても構わんと、敢て言うよ。」
それでも彼は二三度研究所の方へ顔を出さないでもよいだろうかと、心配そうに洋介に尋ねた。電話をかけておいたから懸念はいらないと、洋介はその度に答えた。
「なるほど、電話があるんだな。表の店……いや、ここから言うと裏の店に、電話があるんだな。」
その薄暗い小さな酒場に電話の便宜があることが、井野老人の注意を惹いたらしかった。
酒場の土間の方には、棕櫚竹の鉢植が幾つも並んでいたが、それも井野老人の注意を惹いたらしかった。
「棕櫚竹がたくさん並んでいるが、なぜ棕櫚竹ばかりなんだ。」
それには洋介は答えが出来なかった。だが答えはいらなかった。
「いや、なかなか宜しい。」
二人は小部屋の方に坐りこんで飲んだ。洋介の飲み仲間が三人ほど一緒だったが、井野老人は前々からの知り合いのように遠慮なく振舞った。
大田梧郎が幾度も、ビール瓶を新たに持って来て、空いてるのをさげていった。
「やあ、御主人か、度々どうも恐縮だな。然し、こんなに飲んでも構わんのかな。」
大田は無表情に頷いた。
「いや、ますます宜しい。ここでは、たとい私が蟹であっても、自分で自分の手をもぎ落さないで済みそうだ。」
「蟹というのは、何のことですか。」と、洋介は尋ねた。
「弁慶蟹……あの赤い小さなやつ、知っているね。」
井野老人はさもおかしそうに首を縮めた。――あの弁慶蟹は実にばかな奴だ。あれをつかまえて、さんざん怒らせて、火のついたマッチの棒を手にはさませるのである。蟹は怒って、マッチの棒を力一杯にはさんでいる。そのうちに、棒はだんだん燃えつきてゆき、手元まで燃えて、手が熱くなる。蟹は驚いて、目玉をつき立て手をうち振るが、やはりマッチをはさんでいる。手の鋏を開いてマッチの棒を捨てることを知らない。手があまり熱くなると、蟹は手を根本からぽろりと落して、逃げてゆく。もっとも、手はまた生えてくるものらしいが、それにしても、手を落してゆくくらいなら、初めから、鋏を開いて、マッチの棒だけを捨てればよさそうなものだ。
「子供の時、私はそんなことをしてさんざん遊んだものだよ。」
一同はその話の続きを待った。井野老人はやがて言った。
「マッチの火は吾々の慾望だよ。吾々はそれを捨てることを知らずに、いつまでもじっと握ってるものだから、遂には、手か足か何か大事なものまで、捨ててしまわなければならないことになる。ところで、私にとっては、そのマッチはビールだ。世界がひっくり返っても飲みたい。その私に、ここでは
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