。研究所に来ていた佐竹哲夫も呼ばれた。それから房江の発意で、吉村篤史も電話で呼び寄せられた。
 波多野洋介もそこに出席しなければならなかった。ところが彼は、井野老人と碁をうちはじめて、殆んど意見らしいものを述べなかった。
「高石さんのお宅へ移した方がいいと思いますね。」
 そもそもの初めから彼はそう言うだけで、而もそれが理由づけなしに決定的な響きを持っていた。高石老人の家には、母屋から廊下続きの別棟になってる恰好な室があった。
 彼の碁の相手になってる井野老人は、まだ髪の毛が濃く、痩身長躯、たいてい和服の着流しで、何よりも囲碁が好きだった。研究所には可なりの蔵書を貸与しているにも関らず、その移転などは問題にしなかった。
「研究所と言っても、たかが、まあ図書室だからな。何処だろうと、結構だよ。」
 全くそれに違いなかった。
 然し、研究所には数十名の優秀な研究員が附随していた。それを考えに入れなければならなかった。佐竹はこのことを取り上げた。
「こちらの事情などは、あまり顧慮しなくても宜しいと思います。研究員たちをどういう風に導いてゆくか、それが本質的な問題でしょう。つまり、今後の運営の方法によって、研究所の性格がはっきりして来ることと思われます。」
 これには、高石老人が最も賛意を表した。然し、それならばどうしたらよいかということについては、一向に無関心だった。そのようなことは先々の問題だった。ただ、研究員を重視することが気に入ったのである。
「まったく、彼等を糾合すれば、社会的な一つの勢力ともなるよ。」
 だから彼は、研究所を自邸に置くことにも不賛成ではなかった。嘗ては惑星的存在として政界に暗躍したことが、その肥満した体躯に、短く刈った半白の髪に、厚がましい顔の皮膚に、隠退してる今でも仄見えていた。そして彼はもう、波多野洋介に将来への期待を失いかけていたのである。
 こうした一座の空気を、吉村は敏感に見て取った。研究所の移転を議する立前ではあったが、移転そのものはもう決定してるに等しかった。吉村は黙ってウイスキーを飲んだ。
 研究所員の個人個人のことが噂に上った。だが高石老人は僅かな者しか知らなかった。
「山口を御存じでありましたね。」と佐竹は尋ねた。
「あれは知っている。わしのところへも何度か来た。」と高石老人は答えた。
 その山口専次郎について、佐竹はおかしな話を伝えた。――数日前、山口は日本橋裏の或る酒場に行ったらしい。すると、ビール一杯も飲まないうちに、そこにいた四五名の酔っ払った無頼漢に取り囲まれて、喧嘩をふきかけられたが、彼はそれを巧みにあやなして、外に出たらしい。その酒場がどうやら、波多野洋介が経営してる店らしい。あのような無政府状態の店は、改良する必要がある……。
 ただそれだけの、甚だ曖昧なそして簡単な話だったが、なにか割り切れない不純なものが感ぜられた。
 高石老人は眉をひそめた。素知らぬ顔で碁に耽ってる洋介に呼びかけて、こういう噂があるがと、佐竹の話をはじめた。
 洋介はそれを中途で遮って、ぼんやりした微笑を浮べて言った。
「あの時は僕もそこにいましたよ。よく知っています。」
「うむ、そこで、真相はどうなんだ。」
 洋介はまた微笑した。
「もっとも、僕も少し酔っていました。山口は、たしかに、ビール一本飲みました。それでもう、金が無くなったかして、出て行ったようです。ばかばかしい話ですよ。第一あの店は僕がやってるのではなく、僕はただ客の一人にすぎません。」
 そして彼はまた碁盤の方に向いた。
 相手の井野老人は高い声で笑った。
「つまらん話だね。だが、そこにはいつでもビールがあるのかね。それなら、僕もこんど案内して貰おう。」
「ええ、いつでも御案内しますよ。」
 ところで、実は、そのつまらぬ一件が起った時、私もそこに居合していたのである。――洋介も一緒に、私達は奥の小部屋で焼酎を飲んでいた。そこへ、山口が一人ではいって来て、土間の方の卓につき、ビールを註文した。大田梧郎がビール瓶と小皿物を出した。山口は視線を静かにあちこちへ移して、なにか探索してるようだった。ビールを一本飲んでしまうと、煙草をふかしながら、通りかかった大田に声をかけた。
「おい、ビールをもう一本くれ。」
 卓上に帽子を置き、身を反らして、天井に煙草の煙を吐いた。
 誂らえの品は手間取った。山口は叫んだ。
「おい、ビールだ。」
 その時、洋介が立ち上って土間の方へおりて行った。なにかただならぬ様子なので、私も後に続いた。
 洋介は真直に山口の方へ行き、卓上の帽子をぱっと払い落した。山口が先ず帽子を拾って、それを片手につっ立ったのへ、洋介は浴びせた。
「一本でたくさんだ。出て行きたまえ。」
 彼は左手を伸ばして、山口の上衣の襟を掴んでいた。そ
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