た。
「でも、あのひと、好かれるたちね。山口さんは、ひところ、だいぶ熱心のようでしたし、佐竹さんも、好意を持っていらっしゃるようですよ。」
「だから、私もそうだというんですか。」
房江は頭を振って微笑んだ。
吉村も微笑んだ。
「あのひとは、なんだか気の毒ですね。顔も綺麗な方だし、頭もよい方だから、一応はまあ誰にでも好かれるでしょうが……単にそれだけですね。」
「それだけ……ですって。」
「つまり、恋人にも、また妻にも、ふさわしくないところがありますよ。」
「どんなとこなんでしょう。」
「恋人としては、顔の表情があまりきっぱりしすぎていますし、妻としては、手があまり美しすぎますよ。」
「そんなことが、邪魔になるでしょうか。」
「なりますよ。一応は好きになっても、それから先が躊躇される……つまり、後味がわるそうだというのでしょうか。」
「まあ、後味が……。」
「そういう女が、それも、普通の婚期をすぎた女に、ずいぶんありますね。」
「でも、それは、男の方が卑怯だからではないでしょうか。」
「何がです。後味のことですか。」
「ええ、怖いんでしょう。」
「そうですね、後味がわるいというより、怖いと言ってもいいですね。」
「それで、あなたも、千枝子さんが怖かったんですの。」
「私が言ってるのは、ただ、一般的なことですよ。」
「一般的だけでしょうか……。」
「そうじゃありませんか。そうでなけりゃあ、こんなこと言いませんよ。」
吉村はそれきり口を噤んだ。なにか淋しいものに突き当ったようだった――千枝子は、房江には家族同様な者であり、吉村にはまあ文学上の弟子だった。その千枝子のことを冷淡に、二人の甘えた情愛の餌食にしていたのである。それだけの自意識が、吉村の胸に来た。
「こんな話、もう止めましょう。」
吉村は立ち上って、室の中を歩き、それから房江の肩にもたれかかって、彼女の体温のなかに顔を埋めた。
「私はあなたに、もっともっと甘えたい。甘えさして下さい。」
房江は彼の頭を抱いて言った。
「わたしも……。」
ぬるま湯のような静かな時間がたった。二人は更にも少し酒を飲み、簡単な食事をすまして、その家を出た。曇り空の薄ら日で、風もなかった。生籬や木立の多い道を、省線電車の方へ歩いた。
その時、歩きながら、房江ははじめて、今までなんとなく言えなかったこと、洋介のことを話した。――洋介は房江の実子ではなく、故人が房江との結婚より数年前に他でもうけた子で、房江とは十年あまりの年齢の差しかなかった。それ故、二人の間には、或る程度の距りを置く遠慮が常にあった。その上、支那から帰還してきた洋介は、その思想や感情や生活態度などについて、房江の理解し難いものを多分に持っていた。母としての彼女の手から彼はもう脱け出してしまってるかのようだった。彼は彼女に何も相談しなかったし、打ち明けもしなかった。相談したり打ち明けたりするものを持っていないような様子だった。なにかぼんやりしてるようでもあった。
それなのに、いつのまにか、文化研究所はよそへ移転されるらしいことになってきた。そういうことにしたのは彼だった。そればかりならまだよいが、彼はよそに料理屋を買い取っていた。ささやかな家ということだったが、彼は相当多額な金を引き出したらしかった。もとより、封鎖預金からの封鎖支払の形式によるものだったが、それが幾口にもなっていた。どうもささやかな小料理屋というだけではなさそうだった。今後とも、彼がどんなことを仕出来すか分らない不安があった。結婚の話などは笑うだけだし、今後の方針なども笑うだけだった。そういう彼について、房江はひどく気を揉んだが、どうにもならなかった。――そしてまた房江は、吉村とのことを彼に知られるのを、最も恐れていた。それはなんだか彼女の致命傷になりそうだった。最後の思い出に、吉村と一晩ゆっくり逢いたい、そしてもう後はさっぱりしたい、そういう約束だったのであるが……。
「今後とも力になって下さるわね。」と彼女は足先に眼を落しながら言った。
ぽつりぽつりと、そのような語をしながら、二人はゆっくり足を運んだ。
大きな椎の木が、道の上まで覆い被さっていた。椎の花のむせ返るような匂いが濃く漂っていた。吉村はハンカチで顔を拭きながら呟いた。
「椎の花、五月の匂いですね。」
「え、五月の匂い……。」
房江はその言葉を繰り返して、椎の茂みの方を仰ぎ見たが、その瞬間、眩暈に襲われたかのように、よろけかかって吉村へ縋りつき、彼の胸に顔を伏せてしまった。
高石老人と井野老人とが波多野邸で落ち合うことになった時、文化研究所の移転問題が公然と議せられた。未亡人房江は脳貧血の気味で寝ていたが、自分の代りに、魚住千枝子を席に侍らして、秘蔵のコーヒーとウイスキーを出させた
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