微笑んだ。
「やっぱり、お米が一番なつかしゅうございますね。この四五日、一粒も頂かないんでございますよ。」
米の配給はどこでも遅延していたが、それでも……千枝子には意外だった。
「何をあがっていらしたの。」
「お魚と野菜ばかりで、もうがっかり致しました。」
それも、千枝子には意外だった。魚や野菜は波多野家にはひどく乏しかった。
「まったく、不自然で不合理ですわ。」
その言葉は空《くう》に流れた。お菊さんは機械的に頷いただけで、茶を汲んで出した。
耕地の片隅で、二人の子供が瓦や石を積んで遊んでいた。男の子は、女の子のように髪の毛を長く伸ばしており、女の子は、男の子のような絣の着物をきていた。千枝子はそちらへ行った。
「何をしているの。」
兄は立ち上って、ちょっとお辞儀をした。
朝早く、畠に出てみると、土瓶のように大きな蟇蛙がいた。それの宿にするため、中を空洞にして、瓦や石を積み上げているのである。むずかしくてなかなか出来なかった。千枝子も手伝った。
「ここに、蛙がはいると、怖いわ」と妹がふいに言った。
「なぜなの。」
「蛙にさわると、疣が出来るんでしょう。」
「嘘だよ。」と兄が叫んだ。「お父さんが、そんなことはないと言ったよ。」
「お母さんは、ほんとだと言ったわ。ねえ、どっちなの。」
千枝子は返事に迷った。そこへ、お菊さんが籠を持ってやって来た。子供たちに疣のことを尋ねられると、彼女はにっこり笑って答えた。
「さわりかたが悪いと、疣が出来ますよ。さわりかたがよければ、疣は出来ません。」
彼女は畠にはいりこんで、キャベツや大根や小蕪をぬいた。
千枝子はそこにつっ立って、午前の陽光に照らされてる豊かな菜園を、しみじみと眺めた。男のように腰に両の拳をあてて眺めた。それから、お菊さんの後を追って行った。
「わたし、お願いがあるんですの。こちらの畠の仕事を、手伝わして下さいませんか。」
お菊さんは振り向きもせずに答えた。
「あなたには無理でしょうよ。出来たものを採り入れるのは何でもありませんが、土を掘り返したり、肥料をやったり、作るまでが大変でございますよ。」
「それは、覚悟しております。」
ひどくきっぱりした調子なので、お菊さんは振り向いた。血の気が引いて透き通ったかと見えるほど緊張した顔に、輝きを含んだ眼が、ひたと見開かれていた。お菊さんは当惑して、無意味に微笑んだ。
「それから、も一つ……あの五郎とかいう店へ連れていって下さいませんかしら。」
お菊さんは、こんどは安心して微笑んだ。
「それは、わたくしには……。お坊ちゃまにお頼みなさいませよ。」
お坊ちゃまという言葉を納得する間、千枝子は黙っていた。
「お酒を飲みに行くのではありません。あすこで働けるかどうか、見に行きたいと思っています。」
お菊さんは返事をせずに、野菜の籠を取り上げた。そして二人とも無言のまま家の方へ行った。
縁先に腰掛けて、お菊さんはしみじみと千枝子の顔を眺めた。
「つまらないことを考えるのは、おやめなさいませ。誰でもどんなことでも出来るというわけではございませんからね。」
「いいえ、ただ、何でもよいから一生懸命に働いてみたいと思います。」
「今迄どおり、御勉強なすったら宜しいではございませんか。」
「勉強よりも、働くことです。」
お菊さんは口を噤んで、野菜を整理した。そこへ、戸村が姿を現わすと、千枝子は改まった御礼を言い、野菜の袋をさげて帰って行った。その後ろ姿を眺めながら、お菊さんは先刻の話を伝えた。
「あのひととは、なんだか話がしにくいわ。全くの本気らしいようでもあるし、こちらがからかわれてるようでもあるし……。」
戸村は考えながらゆっくり言った。
「あのひとには、なにもかも本気だろう。ただ、頭がよすぎるから、ちょっと危いね。」
千枝子の後ろ姿は、焼け野原の中に長く見えていた。かさばった野菜の袋をさげ、男みたいに肩を張り、頭をつんともたげてわきみもせず、ゆっくり足を運んでゆく、そのモンぺ姿は、青々と伸びてる麦の間を、電車通りの方へ、次第に遠く小さくなっていった。
雨がちで冷かな数日の後、いやにむし暑い日が来た。その午後、西南の中天に真黒な雲が屯ろし、それが渦巻き拡がり重畳して、空を覆うていった。地平近い明るい一線も隠れ、黒雲は南から東へと急速に移動しながら、西に本拠を置き、北方に僅かな青空を残すのみとなった。天地晦冥といった趣きで、樹々の若葉がざわめいた。
魚住千枝子は、暴風雨の用意にというほどではなく、ただなんとなくそこらを見廻る気持ちで、文化研究所の方へ行ってみた。日曜日のことで、研究所は休みだった。家に寄宿してる学生の小池章一が、縁先に腰掛け、煙草をふかしながら、空を眺めていた。千枝子が側へ行っても、ちらと振り
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