場にいた。
 千枝子は未亡人の縁故者だったので、洋介のことは前から知っていたが、親しく接するのは初めてだった。洋介は博多港からの電報と殆んど前後して、飄然と帰ってきた。千枝子は古い女中のお花さんと一緒に、彼を迎え入れる支度にまごつき、次いで、玄関では、彼の荷物の少いのに却ってまごついた。彼はさっさと茶の間へ通った。そして彼が少しくくつろいだ頃、千枝子はしとやかに室へはいって、襖ぎわに両手をつき、低くお辞儀をした。
「お帰りあそばせ。」
 それきり、顔がなかなか挙げられなかった。
 未亡人房江が、彼女を洋介に引きあわせ、近くへと差し招いたが、彼女は席を進めかねた。その時のことが、彼女に一種の地位を決定してしまったかのようだった。つまり、小間使めいた地位に彼女を置いたのである。後になって、彼女はそのことを考えてみた。なぜもっと率直に振舞わなかったか、お帰りあそばせなどとどうして言ったか、それを考えてみた。然し自分でも訳が分らなかった。而も一度決定した地位からは容易にぬけ出せなかった。それかといって、彼女は小間使の仕事をしたわけではない。洋介の身辺の世話は、房江の手で、更にお花さんの手で、すっかり為されたし、彼女の仕事はおもに研究所の方にあった。ただ、家の中で、彼女はいつも、足音を忍ばせ小腰を屈めて、というほどではないが、目立たぬようにしとやかに振舞い、座席にも気を配った。そしてそれが一層ばかばかしいことには、彼女自身、知識も教養も相当に具えてる、三十歳の身の上なのである。
 洋介は、誰に対してもあまり話しかけなかったが、どういう時ということなく、ふいに、じっと人の顔を見る癖があった。その視線を受けると、千枝子はいつもより更に縮こまった。食事の時などは、彼の視線がいつじっと注がれるか分らないので、一層かたくなった。ただそういうこと以外、彼は彼女に無関心のようだった。その上、彼の日々はひどく不規則だったので、彼女が彼に接する機会も少なかった。それでも、彼の存在そのものが、いつも重々しく家の中に感ぜられた。彼に大変気を遣っているような房江の影響もあったらしい。
 お花さんだけは、何の遠慮もなく彼を昔通りに子供らしく取扱い、そして彼を「お坊ちゃま」と呼んでいた。その呼称が千枝子には羨ましかった。千枝子は彼を何と呼んでよいか困った。お坊ちゃまでは固より変だし、若さまとも言えないし
前へ 次へ
全23ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング