。電話をかけておいたから懸念はいらないと、洋介はその度に答えた。
「なるほど、電話があるんだな。表の店……いや、ここから言うと裏の店に、電話があるんだな。」
その薄暗い小さな酒場に電話の便宜があることが、井野老人の注意を惹いたらしかった。
酒場の土間の方には、棕櫚竹の鉢植が幾つも並んでいたが、それも井野老人の注意を惹いたらしかった。
「棕櫚竹がたくさん並んでいるが、なぜ棕櫚竹ばかりなんだ。」
それには洋介は答えが出来なかった。だが答えはいらなかった。
「いや、なかなか宜しい。」
二人は小部屋の方に坐りこんで飲んだ。洋介の飲み仲間が三人ほど一緒だったが、井野老人は前々からの知り合いのように遠慮なく振舞った。
大田梧郎が幾度も、ビール瓶を新たに持って来て、空いてるのをさげていった。
「やあ、御主人か、度々どうも恐縮だな。然し、こんなに飲んでも構わんのかな。」
大田は無表情に頷いた。
「いや、ますます宜しい。ここでは、たとい私が蟹であっても、自分で自分の手をもぎ落さないで済みそうだ。」
「蟹というのは、何のことですか。」と、洋介は尋ねた。
「弁慶蟹……あの赤い小さなやつ、知っているね。」
井野老人はさもおかしそうに首を縮めた。――あの弁慶蟹は実にばかな奴だ。あれをつかまえて、さんざん怒らせて、火のついたマッチの棒を手にはさませるのである。蟹は怒って、マッチの棒を力一杯にはさんでいる。そのうちに、棒はだんだん燃えつきてゆき、手元まで燃えて、手が熱くなる。蟹は驚いて、目玉をつき立て手をうち振るが、やはりマッチをはさんでいる。手の鋏を開いてマッチの棒を捨てることを知らない。手があまり熱くなると、蟹は手を根本からぽろりと落して、逃げてゆく。もっとも、手はまた生えてくるものらしいが、それにしても、手を落してゆくくらいなら、初めから、鋏を開いて、マッチの棒だけを捨てればよさそうなものだ。
「子供の時、私はそんなことをしてさんざん遊んだものだよ。」
一同はその話の続きを待った。井野老人はやがて言った。
「マッチの火は吾々の慾望だよ。吾々はそれを捨てることを知らずに、いつまでもじっと握ってるものだから、遂には、手か足か何か大事なものまで、捨ててしまわなければならないことになる。ところで、私にとっては、そのマッチはビールだ。世界がひっくり返っても飲みたい。その私に、ここでは
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