遊んでいた。読書だけは熱心にしているようだったが、そのほかは、友人たちとの私交、演劇や音楽会、散歩や酒、近県への一二泊の旅など、東京中心の土地を改めてなつかしんでいるかのようでもあった。これからどんな方向へ進み、どんな仕事をするつもりか、恐らく彼自身でも見当がつかなかったのではあるまいか。
洋介のそういう態度は、外地からの帰還者ということを考慮に入れても、やはり非難の余地があった。深刻な食糧危機、政局の昏迷、社会情勢の不安、其他、あらゆる問題が堆積錯綜して、敗戦後の立ち直りが可能であるか否か、見通しさえもつき難かったのである。このことについて、彼の亡父の親友だった高石老人は、豪宕な調子で彼を揶揄したことがある。それに対して、彼は例の微笑を浮べた。
「そうですが、実際のところ、私にはまだ何も分らないのです。だから、いま、勉強中なんです。」
「さよう、大いに勉強してくれ。」と高石老人は真面目に言った。
その勉強の機関、というほどでもないが、洋介が帰国してからの活動の足掛りとして、ささやかなものが、高石老人の発意で設けられていた。邸内の、故人の書斎と次の間とをそれにあて、名前だけは厳めしく、波多野文化研究所とされていた。戦争犯罪の摘発が行われ、官界や政界から公職追放者が続出しそうな形勢になった頃から、この文化研究所は既に発足していた。果して高石老人の見通し通りになって、この研究所では、文化一般を検討する仕事に取り掛ったが、資料も少く人員も足りなかった。故人の蔵書や高石老人が集めてきた記録などの外、故人と親しかった学者井野老人の蔵書も借りてこられた。それらを、午後一時から五時までの時間に、数名の研究員が、調査というよりも寧ろ各自の勉強のために読み耽った。謂わば一種の公開図書室で、図書払底の折柄、研究員として出入の許可を求めてくる者が多かった。高石老人と井野老人とがそれらを選択した。固より、研究員という名目については、無給でまた無料だった。
高石老人はこの文化研究所を自慢にしていた。研究の成果などは問題でなく、研究の指導者さえも無かった。ただここに出入する研究員を通じて、壮青年層に、波多野洋介が一種の活動地盤を持つだろうということが、老人のひそかな目論見だったらしい。
この研究所に、或る私立大学の教師をし、傍ら翻訳をやってる佐竹哲夫が、勤勉にやって来た。然し彼は他の人
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