時には三十分近くも待たされることがあった。真中に四角な大きな火鉢が置いてあったが、中の火は大抵白い灰ばかりになっていた。扉も無い四方の入口からは寒風が遠慮なく吹き込んできた。木の腰掛に坐っていると、足の先からぞくぞくと寒さが全身に上ってきた。実際その狭い待合所の中にはいってきて、冷たい腰掛に坐る者は、老人か疲れた者ばかりだった。他の客は皆歩廊の上に立って電車を待っていた。歩廊の両側にレールが走っていた。線路の向うには幅一尺ばかりの溝があって、いつも澄んだ清らかな水が流れていた。何処からか湧き出てくる水であろう。両側は高い崖になっていて、その縁に道路が続いていた。何故にそう平地を深く掘り下げて線路を拵えたものか分らないが、改札口から橋を少し渡って薄暗い階段を下りてきて歩廊に立つと、地下室に下りて来たような感じがするのだった。それでも両側の崖に切り取られた空には、星がちらちら見えていることが多かった。
 青白く光っているレールの上を、長い貨物列車が通る時なんかは、電車の来るのが特に遅かった。貨物列車はいつも汽笛を鳴らさないで来るので、初めはそれが電車かと思っているうち、次第に近づくにつれてそうでないことが分ると、胸糞が悪くなるような温気を残して走り去る汽関車に対して私は妙に腹が立ってきた。特にその後に長く続いて人を馬鹿にしたようにごとごととぬるい速度で走り去る真黒な貨車を見ていると、老耄《おいぼれ》た無能な醜い悪魔を見るような心地がして、私はいつもそれが通りすぎた線路の上にかっと唾《つばき》をした。
 十二時すぎには乗客はいつも少なかった。特に反対の方へ行く電車が先に来て半数ばかりに取り残される時には、夜更けの寂しさが俄に感ぜられた。皆知らず識らずに歩廊の端に歩み寄って、其処に一群れをなして佇みながら、自分達の電車のくるのを待っていた。
 最初はちらちらと遠くに青いスパークが見え、次に明るいヘッドライトにレールが輝らし出され、その上をすうっと電車が走って来て、瞬く間に車台が自分の前に止る時、私はほっと蘇るような心地がした。腰掛は大抵空いていた。まばらな乗客は皆黙ってぼんやり眼を開いていた。首を垂れて眠ってる者もあった。皆が安心しきってるようで、また疲れてるようであった。私はクッションの上にどかと身を落して、白い天井についてる電灯の光りをまじまじと見上げながら、煙草を吸った。そして遠い安らかな旅に出たような落付きを感じた。寒い闇夜をついて走る響きが、一層車室の中の明るみを淋しい夢のような気分にした。停車場へ電車が止る毎に、幾人かの人が出たりはいったりした。皆静かに黙っていた。車の軽い動揺に全身の筋肉が心地よくたるんで、眼がぼんやりしてきて、私はついうとうととすることもあった。電車が上野に着くと、私は立ち上るのが名残り惜しいような気がした。それから十五分許りの道を大抵歩いて帰った。家の人達はいつも寝てしまっているので、私は自分で表の戸締りをした。
 そういうことが、いつのまにか私の生活の一つの様式となってしまっていた。私はそれを週に三回位は欠かさずくり返していた。然しそのことだけは、私の日々のうちでも少しも退屈でない部分だった。碁盤の上の勝負には絶えず変化があった。電車の中で逢う人の顔も絶えず異っていた。夜更けの帰途には今にも何か変ったことが起りそうな気がした。人生とは云わないが、私の心のうちに澱んでいる退屈な憂欝を、一変してしまうようなことが何か起りそうな気がしていた。
 そしてまた実際私は、変なことに出逢ったのである。否、変なことをしたという方が適当かも知れない。
 夜更けの帰りにS――の歩廊で、見知りの顔が一つ私には出来るようになった。いつのまにその顔を見知ってしまったのか、私はその初めを少しも覚えていない。そういう初めの無い知り合いというものは全く妙なものである。私と彼とは、名前も住所も身分も互に全く知らない他人であるのに、顔だけはよく知り合っていた。S――駅で一緒になると、互に一種の親しい眼付きを交わした。電車の中でも、友人同志のように親しく相並んで腰を掛けることが多かった。上野で下りると、互にどちらの方向へ向って帰ってゆくかをはっきり知っていた(私は山下を右へ、彼は真直に広小路の方へ)。それでいて言葉を交えたことは一度もなかった。
 痩せ形の背の高い男で、いつもよく雪駄《せった》をはいていた。眉が濃く短く、光りの鈍い円みを帯びた眼には何処か低能らしい趣きがあったが、高い鼻と小さな口とは上品だった。その口には小供らしい愛嬌があって、屹度舌ったるい声が出そうに思われるのだった(そしてそれは実際であった)。眼鏡もかけていず、口鬚も伸していなかった。そしてそういう顔立を、下細りの頬の輪廓がとり巻いていた。※[#「臣+頁」、第4水準
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