ってからは、女に出違うことが多かったので、一層面白かった。結果だけは相変らずまるで駄目だった。然し時々、面白い男や女をも見出すことがあったので、それで我慢をしていた。
一月の二十日頃からまた例の男が姿を現わし初めた。そしていつのまにか強く私達の注意を引きつけてしまった。
彼は時々待合所の中に立って広告のビラを見ていた。それからまた反対の電車が来ると、その方へ寄って行って中を覗くようでもあった。歩廊に立っている時はいつも、柱の影や階段の隅を選んだ。然しやがて私達は、彼の眼が絶えず私達の方へ向けられることに気付いた。広告のビラを見てる時なんか、時々ちらと私達の方を横目で見るのが、其処の明るい電灯の光りで分った。そのくせ常に私達の前を避けようとしているらしかった。私達が彼が佇んでる方へ歩いてゆくと、すぐに彼は向うへ歩き出した。私達の一人が誰かに言葉をかける時は、彼は屹度薄暗がりの中にじっとこちらを透し見ていた。それがいつもまともにこちらへ顔を向けないで、横目で睥んでいた。
「あの男は眇《すがめ》かも知れませんぜ。」と私は村瀬に云った。
背の低い肩の四角な男で、平べったい鼻の下に短い口鬚を生やしていた。いつも帽子を目深に被っていたが、額のつまっていることが顔の輪廓で察しられた。その眼が妙に陰険な光りを帯びていた。老年になって次第に零落してゆく者の眼で変に黒ずんだ鋭い光りを放つのがある。そういう眼の光りだった。普通より眼球が飛び出てるようでありながら、その光りは妙に奥深い趣きを持っていた。年齢は一寸見当がつかなかった。三十位かと思うと、四十位に見える時もあった。
私達が電車に乗ると、彼も屹度乗って来た。然しいつも別の車室か、または私達に一番遠い隅っこに腰を下した。一度私達の方へ向けられている彼の視線を捉え得たと思ったことがあったが、いつもは別に私達の方へ注意してる風にも見えなかった。上野へ着くと、彼はすぐに何処かへ行ってしまった。その跡をつけてみるだけの好奇心も私達には起らなかった。否それよりも上野の駅を出るとすぐに彼の姿は見えなくなってしまうのであった。
「変な男ですね。一体何者だろう?」私達はよくそういう疑問をくり返した。「僕達に帰依してる者かもしれませんぜ。」とはては笑ってしまった。然し彼の黒ずんだ眼の光りが、いつとはなしに私達の心を乱しはじめた。
或る夜、私がそっとS――駅の階段を下りてゆくと、その男が立っていた。歩廊の縁の線路のすぐ近くで、柱の影の暗い所だった。両腕を胸に組んで何か考え耽っている様子で、時々頭を横に軽く傾けていた。何をするのかしらと見ていると、いつまでたっても動かなかった。私は静に彼の方へ歩み寄った。と突然彼はふり返った。私達の息が白く凝って一つに流れた。私の顔をじっと見たかと思うと、彼は一つ陰惨な瞬きをした。それから急に右手を上げて親指の爪を噛んだ。そしてすっと向うへ歩いて行った。それが殆んど一瞬間の間であった。私は呆気に取られて、ぼんやり彼の後姿を見送った。彼は暫く向うを歩き廻っていたが、何と思ったか静に階段を上って行った。そして再び下りて来なかった。屹度そのまま駅から出て行ったものであろう。
私は益々深い疑問に囚えられた。そしてその頃から、「油断は出来ないぞ」という気がした。
二回に一度位は大抵彼の姿が見られた。姿が見えない時には、彼が何処かに隠れているような気もした。然しやはり私達は乗客の誰かに口を利くことは続けていた。
所が或る時妙なことを坂口からきいた。二三日前一人の男が坂口の所へ訪ねて来て、私の身分を調べて行ったそうである。「少し縁談のことで。」とその男は云ったそうである。私がいつも火金両日にやって来て十二時になると碁の勝負もそのままにして立上るのを不審に思っていた坂口は、そしてまたその頃私が急に元気よくなったのを怪しんでいた坂口は、こうつけ加えた。「君も少し用心して身を慎んだがいいね。」
何だか様子がおかしいので、私はそのことを帰りに村瀬に話してみた。すると村瀬は、一寸考えていたが、はたと膝を叩いた。
「分った。実は僕の方にもそういうことがありましたよ。変な男が僕の行く球屋へも来ましてね、下手な球をつきながらそれとなく、僕の身の上を聞いて行ったそうです。縁談だと云ってさんざんお上さんに冷かされた所です。」
「へえ、君の方もですか。」
「君これはうっかり出来きせんぜ。僕達は屹度誰かに悪意を持たれてるに違いありません。余り種々な人に無作法な真似をしましたからね。」
考えてみると一々思い当るふしがあった。
私達はその夜またカフェーに寄って、麦酒を飲みながら種々善後策を講じた。もう疑う余地はなかった。気味悪いようでも、また痛快なようでもあった。
然しその男は果して何者だろうという
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