十分位には当りますからね。」
「でも電車が後れた方が面白かございませんか。」
「え?」
「あなた方には屹度。」そう云い続けて彼女は笑った。
「あなたはそれでは私達のことを知っているんですか。」
「いえ、別に……。」
 そう云いかけて彼女は私の顔をじっと眺めた。
「いやいつか見られたんですね。これは驚いた。……おい村瀬君!」そういって私は村瀬を呼んだ。
 けれど村瀬が近づいて来る間に、向うに電車が走って来た。其処は線路がカーヴをなしていたので、電車は見えたかと思うとすぐ側にやってくるのであった。私は何にも云う隙がなかった。
「何れまた。」そう云いすてて私は電車に乗った。
 電車の中では何にも云わないことにしていた。その上、女は向うの方に腰掛けてしまった。ただ時々私達の方を見ていた。
 けれどもそれだけの結果でも私には非常な成功だった。私は嬉しくなった。
「なる程女の方が男よりは進歩してますね。」と村瀬は結論した。「これから女の方を狙《ねら》うとしましょうか。」
 そして私達はその「狙う」という言葉に笑い出した。
 結果は予期に反した。女の方が男よりも一層不愛想なことが多かった。
 或る時私は、一人の若い女に話しかけた。すると彼女はちらと私の顔を見たが、そのまま黙って向うへ行った。其処には五十位の老人が立っていた。女は彼に何か囁いた。と老人は一度頭を強く横に振って私の方をじっと見つめた。太いステッキを持った老紳士だった。眉根を寄せた鋭い眼の光りを私は見た。「しまった」と私は思った。何か罪を犯したような気が一寸した。
 けれども私達の心はもう非常に落付いていた。そして愉快になっていた。強い好奇心も働いていた。ただそのために以後二人連れの者には決して話しかけぬことにした。
「人間の心が一番よくうち開くのは、ただ一人で居る時に限る」と私は村瀬にいった。
 斯くしてS――駅で十二時すぎに落合った者には、種々な人が居た。重に中流以下の階級の者が多かったが、私達はなるべく自分と交渉がありそうな者を択んだ。私達の言葉をよく受け容れてくれる者は却って見すぼらしい服装をした者に多かったが、社会の階級というものが如何に親しみや距離やを人間の間に置いてるかを、私は感じた。その上、労働者などに話しかけることに、私は一種の自責の念を感じたのである。これは自分でも何故だかよく分らなかったが、然し実際の感情だった。と云って私は、自分のそういう行為が決して下らないものではないとも信じていた。本当に人間の心が素直である時には、私達のやり方は凡ての人から是認さるべきものと思っていた(然しこれは後からつけた理屈かも知れなかったが)。
 そして私達は、人間の心が如何に卑屈に出来てるか、如何に絶えず用心をし絶えず脅かされてるか、如何に敵意に満ちているかを、まざまざと見た。初めに言葉をかけると、向うの人も大抵は短かい返事をした。然し二度目に言葉をかけると、多くは返事もしないで、妙な陰険な眼付で見返した。夜更けであるのと、あたりが薄暗いのと、寂しい小駅であるのと、それがいけなかったのかも知れない。然し本当はそれがなおいいわけではなかったか。皆其処では心が淋しくはなかったか。また、もしこれが何か物でも尋ねるのであったら、皆親切に教えてくれたかも知れない。然し、用の無い言葉の方はよりよく人の心を温めるものではないか。――私達はそういうことまで考えた。理論は実行の後からついてくる、そう思って私達は二人で苦笑もした。
 然し何よりもそれは、私達の当時の生活状態では興味あることであった。
 薄暗がりで眺める人間の顔は変なものだった。私達が話しかけるのに気味悪がって遠くに立ち去って、またじろじろとこちらを顧みる者の顔の中は、ただ眼と口とばかりだった。眼は冷たく鋭く輝いていた。口は妙にだらりとしていた。眼には敵意があり、口には可笑しな愛嬌さえあった。美しかるべき眼と貪慾なるべき口とのその表情の矛盾は、やがて社会生活の矛盾を示すものではなかったろうか。眼が陰険で口が可愛いいものは、動物のうちに人間ばかりのような気もした。ただその時、鼻が少しも私の注意を惹かなかったのは変だった。
 十二月の末になって、いつとはなしに私達の注意をひく男が一人現われて来た。マントを着て草履をはいていたが、或は鳥打帽を被ったり、或は中折を被ったりした。殆んど一度置き位に私達はその男をS――駅の歩廊の上で見出した。私達が寄ってゆくと彼は遠くに歩いていった。多くは待合所の中に立っていた。それで一度も言葉をかける機会が無かった。
 不思議な男だぐらいに思って気にかけずにいるうちに、いつしか正月になった。で十日ばかり私達は「休んだ。」然し正月といっても別に用のある身でもなかったので、またすぐに初めることにした。特に正月にな
前へ 次へ
全11ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング