がそっとS――駅の階段を下りてゆくと、その男が立っていた。歩廊の縁の線路のすぐ近くで、柱の影の暗い所だった。両腕を胸に組んで何か考え耽っている様子で、時々頭を横に軽く傾けていた。何をするのかしらと見ていると、いつまでたっても動かなかった。私は静に彼の方へ歩み寄った。と突然彼はふり返った。私達の息が白く凝って一つに流れた。私の顔をじっと見たかと思うと、彼は一つ陰惨な瞬きをした。それから急に右手を上げて親指の爪を噛んだ。そしてすっと向うへ歩いて行った。それが殆んど一瞬間の間であった。私は呆気に取られて、ぼんやり彼の後姿を見送った。彼は暫く向うを歩き廻っていたが、何と思ったか静に階段を上って行った。そして再び下りて来なかった。屹度そのまま駅から出て行ったものであろう。
 私は益々深い疑問に囚えられた。そしてその頃から、「油断は出来ないぞ」という気がした。
 二回に一度位は大抵彼の姿が見られた。姿が見えない時には、彼が何処かに隠れているような気もした。然しやはり私達は乗客の誰かに口を利くことは続けていた。
 所が或る時妙なことを坂口からきいた。二三日前一人の男が坂口の所へ訪ねて来て、私の身分を調べて行ったそうである。「少し縁談のことで。」とその男は云ったそうである。私がいつも火金両日にやって来て十二時になると碁の勝負もそのままにして立上るのを不審に思っていた坂口は、そしてまたその頃私が急に元気よくなったのを怪しんでいた坂口は、こうつけ加えた。「君も少し用心して身を慎んだがいいね。」
 何だか様子がおかしいので、私はそのことを帰りに村瀬に話してみた。すると村瀬は、一寸考えていたが、はたと膝を叩いた。
「分った。実は僕の方にもそういうことがありましたよ。変な男が僕の行く球屋へも来ましてね、下手な球をつきながらそれとなく、僕の身の上を聞いて行ったそうです。縁談だと云ってさんざんお上さんに冷かされた所です。」
「へえ、君の方もですか。」
「君これはうっかり出来きせんぜ。僕達は屹度誰かに悪意を持たれてるに違いありません。余り種々な人に無作法な真似をしましたからね。」
 考えてみると一々思い当るふしがあった。
 私達はその夜またカフェーに寄って、麦酒を飲みながら種々善後策を講じた。もう疑う余地はなかった。気味悪いようでも、また痛快なようでもあった。
 然しその男は果して何者だろうという
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