のため、僕は少し悩まされた。」
無理にそう言ってるようなふしがないでもなかった。そして彼はまた考えこんだが、やがて話しだした。――私が前に述べたところは、その時聞いたことやその後に聞いたことを綴り合せたものである。
然し、彼の話は中断された。魚住千枝子が戻って来たのである。
千枝子は心持ち蒼ざめた顔をしていた。そして落着き払っていた。
「僕は驚嘆しました。」と秦は彼女に言葉を向けた。「あなたは実に平然としていました。全く平然としていました。」
「あら、そうでしたかしら。」
そして彼女は一抹の微笑を浮べた。
「あなたは、あれとは別なことを考えていたようです。何を考えていましたか。」
「何にも考えてはおりませんでした。ただ、ちょっと気がかりなことがありました。」
次の言葉を皆は待った。彼女は真面目に言った。
「あの神子のひと、少しびっこのようでした。どちらの足がわるいかは分りませんが、少しびっこのようで、それが気になりました。」
全く期待にそわない言葉だった。誰も黙っていた。がその沈黙のなかで、波多野はまじまじと彼女の顔を見つめた。その視線のもとで、彼女は突然頬に血を漲らし、その血が引くと、薄い皮膚が透き通って見えるほどに緊張した。波多野はへんに眼をしばたたき、それからウイスキーと水をコップに注いで、彼女の前に差出した。
「お飲みなさい。」
「あら、わたくし……。」
「構わないから、飲んでごらんなさい。それから、煙草もどうです。」
彼女はちらと波多野の顔を見たが、また頬に血を漲らして眼を伏せた。眼の前に、波多野のシガレットケースがあった。彼女はそれにちょっと美しい指先で触れたが、そのままそれは押し返して、コップを取上げ、唇をつけた。貝殻のような爪が光った。
彼女がコップを置くのを待って、波多野は手を伸べて握手した。彼女は素直に握手に応じた。波多野は秦にいった。
「秦君、あらためてこのひとを紹介しよう。魚住千枝子といって、僕の母の遠縁に当るひとだ。長く僕の家に同居している。僕は君のおかげで、このひとをはじめて見出したような気がする。これから、このひとも、僕等の仲間に引張りこむから、承知しておいてくれよ。」
秦はなにか腑に落ちないような面持ちで、ただ頷いた。
波多野はグラスを幾杯かあけた。千枝子もそれに応ずるようにコップをあけた。
波多野は立ち上った。
「今晩は、僕はこれで失礼するよ。君達はゆっくりしていってくれ。大田にそういっておくから。」
それから後は千枝子を顧みた。
「さあ行きましょう。」
二人はあわただしく出て行った。外は月夜だった。――彼等はそれから、自宅まで三キロほどの道を歩いていったらしい。
彼等が出て行くと秦はふいに言い出した。
「似ている。なんだか似ている。」
「何が似ているんだい。」
秦は遠いことを考えるような調子で、ぽつりと言った。
「柳丹永。」
魚住千枝子が柳丹永に似ているかどうか、そんなことは別として、柳丹永のことが夢の中のように私の頭に浮んだ。――彼女は嘗て上海で、秦啓源の愛人だった。殆んど無意識のうちに、日常、霊界と感応して、特殊なことを予見する能力を持っていた。そして精神が燃えつきるような工合に、突然、静かに死んでいった。私は彼女について、ほかで述べたことがあるから、茲には省略しよう。
ところで、私の見るところでは、魚住千枝子と柳丹永は似ていなかった。霊界に関することは別としても、性格や容貌も似ていなかった。ただ、頬の薄い皮膚の緊張のさまだけが、そっくりであった。その一点だけが、今、どうして秦啓源の心に拡大されて写ったのであろうか、照顕さまの一件が反映した故であろうか。彼が異国の旅に在る故であろうか。――私はしみじみとした気持ちで、その夜、彼に蟹をすすめ酒をすすめた。
とはいえ、柳丹永のことを秦がいい出した一事は、何か気になった。その翌日、波多野洋介が魚住千枝子を拉し去るようにして、母や家人の思惑も憚らず、山間の温泉へ行ってしまったことを知って、私はなぜか冷りとした。大田梧郎も不安な気持ちを感じたらしかった。秦啓源も凶めいた感情を懐いたらしかった。それが何故であるかははっきり言い難い。彼等がたとい愛し合ったとしても、そこには何の危険もなかった筈である。情熱そのものさえも、二人の間では非情めいていたろう。然し実は、そのための不安だったかも知れない。吾々は波多野の帰来を待ちわびながら、あまり彼のことを口に出さなかった。
何の音信もない五日の後、吾々が安心したことには、波多野と千枝子は帰って来た。波多野はいつもの通り無頓着な服装だったが、千枝子は珍しく洋装で、ビロードの服に薄茶の外套をまとっていた。そして二人揃って、「五郎」に蟹を食いに来た。波多野はたえず微笑しており、千枝子は人が変ったようによく笑った。
――それから後、「五郎」の二階は吾々のクラブみたいになり、研究室みたいになった。秦啓源も可なりの基金を出してくれた。然しこのことは他の物語に属するし、旦つは未だ将来のことに属する。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「中央公論」
1947(昭和22)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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