島の着物に縫紋の羽織を重ねたじみな姿に、薄桃色の半襟がくっきりと目立っていた。
波多野はなんだかあわてた様子で、碁盤をはなれて中腰まで立ち上ったが、火鉢にくっついて坐ると、千枝子をそこに招いた。彼女はすり足で席に進んだ。へんに皮膚の薄い頬が緊張して微笑の影さえ示さず、眼はじっと火鉢の中に落されていた。そしてふいに言った。
「後れましたのでしょうか。」
「いや、まだでしょう、何ともいってこないから……。」
それから波多野は、彼女を今夜の同席者として秦に紹介した。
秦はぎごちないお辞儀をした。
「僕は……一向に、馴れませんから、よろしく願います。」
「わたくしこそ、どうぞよろしくお願い致します。」
彼女はちらっと眼を挙げただけだったが、秦は少しくぶしつけなほど彼女を見守った。それから、打ちかけの碁盤に眼をやり、室内を眺めたが、立ち上ってゆき隅っこの卓上の蛭の瓶を取りあげ、ちょっとためらった。
「どうするんだい。」と波多野が尋ねた。
「こんなもの……どこか……。」
瓶を隠すようにして、更に隠し場所を求めていた。
「それも、もう用はあるまい。捨ててしまおうか。」
「何でございますの。」
千枝子は、波多野が受取った瓶を更に受取って、その中の蛭を眺めた。
「これ、どうなさいましたの。」
「あちらのお上さんが、肩の欝血を吸わせていたのを、ちょっと、貰ってきたんです。」
千枝子は何とも言わずに、そして別に嫌気も示さずに、瓶の中の蛭をじっと眺めた。ただふしぎそうに眺めた。
その瓶を、波多野は奪うように取上げて、階下へおりてゆき、またすぐあがってきた。――その蛭がどうなったかは明かでないが、恐らく、大田梧郎が瓶のまま堀割にでも捨ててしまったのであろう。
沈黙が続いたあとで、千枝子はごく自然に言いだした。
「あちらの、美春さんとか仰言る方、蛭の姿におなりなさるということですけれど、ほんとうでしょうか。」
波多野と秦は顔を見合せ、次に千枝子を眺めた。
「大田さんは、ほんとうだろうといって、笑っていらっしゃいましたけど……。」
大田から聞いたのだとすれば、彼女もくわしく知っているに違いなかった。
美春さんというのは、刳貫細工物問屋の主婦の妹で、四十歳をすぎた小柄な女だった。嘗て結婚したこともあるが不縁になり、子供もなく再婚の意志もなく、姉のもとに身を寄せて、そのまま、年月を過してしまった。――その美春さんが、夏の頃から、一種の幻覚に襲われはじめたらしい。夜中にふと気がついてみると、或は、障子を細目にあけて、或は襖を細目にあけて、誰かがじっと覗いているのである。驚いて、蒲団の上に身を起すと、障子や襖はもうしまっていて、誰もいない。そんなことがしばしば起って、遂には、じっと覗きこんでくるその顔が、蚊帳のところまでやって来た。蚊帳がこちらへふくらむほど、その怪しい顔がのりだしてくる。もう身を起すことも出来なくて、蒲団をかぶり、息をひそめていると、いつしか顔は消えてしまう。その顔立ははっきり分らないが、確かに誰か人の顔なのである。彼女は夜灯をつけず真暗な中に寝る習慣だったが、真暗な中にありありと、その人の顔だけは分り、それが消えてしまったあとの暗闇は、いっそう恐ろしかった。後にはそれが毎夜のようになって、おちおち眠られず、次第に心気が衰えてきた。
主人の西浦辰吉夫妻も、美春のことを心配しだした。そして辰吉の懇意な者に、照顕さまを信仰してるのがいて、一度ためしに祈祷して貰ったらどうかと勧めた。照顕さまというのは、新しく出現したもので、祈祷の秘義は仏教に依るものらしく、本体は神霊らしいが、そこのところは神秘の奥に閉ざされている。戦争後たいへん信者がふえ、霊験あらたかだとのことだった。その照顕さまに、辰吉は頼むことになった。そして祈祷をして貰ったところが、美春は蛭の本体を現わしたそうで、それを祓い落してもらってから、彼女の夜の悩みは遠のいたらしい。
西浦夫妻は照顕さまの信者になった。そして美春はまだすっかり恢復していないので、なお一回の祈祷が行われ、更にもう一回行われることになったのである。
西浦の妻が時折、蛭に欝血を吸わせているから、美春が蛭の本体を現わしたのも不思議ではないと、大田梧郎は簡単に解釈した。然し、それだけでは片付けられないものがあった。この種の事柄がいつもそうであるように、話だけでは真相は掴めなかった。
この美春の一件は、吾々の中でもごく少数の者しか知らなかった。ただの話題とするには、あまりにばかばかしかったか、或はあまりに奇怪だった。秦啓源は最も深い関心を持ち、波多野を通じて、次回の祈祷に列席することの許しを得た。ところが前日になって、魚住千枝子が同じ許しを得てることが分った。西浦夫妻にとっては、信仰に垣根はなく、二人の願いを殊勝なものと見たらしい。但し、祈祷の現場には、彼等夫妻も遠慮して同席しなかったほどだから、ただ照顕さまの思召しに依って……という条件がついていた。
魚住千枝子がやって来ることを、波多野はへんに気にしていた。大田を通じて西浦夫妻に話がなされたというそのことではなく、照顕さまと彼女とを結びつけることに、なにか危惧めいた思いがあったらしい。
「女が出るべきところではないんだが……。」と彼は私に囁いた。
そしてその夜、七時頃であったろうか、照顕さまからお許しがありましたから……と西浦からの伝言があった時、波多野は眉根に深い皺を寄せたが、次には甚だしく冷淡な態度を取った。
「僕はここで酒を飲んでるから、君たち、ゆっくり行ってきたまえ。」
そして彼は大田を呼んで、蟹と酒をたのんだ。
其処から西浦一家の住居の方へ行くには、廊下からの通路が板戸で閉鎖されているので、階下へおりて、料理場裏の狭い非常口を通らなければならなかった。
魚住千枝子が先にたち、秦啓源があとに随い、大田に案内されて行くと、すぐに二階の奥座敷へ通された。
祈祷の用意は出来ていた。
意外なほど簡単な仕度だった。紫檀の大きな卓上に、白木の小机が置かれていて、それが白布で覆われ、白布の上に金襴を敷いて、黒塗りの厨子が安置されていた。厨子の両扉は閉ざされたままで、なおその上、五つの丈夫な真鍮の帯が扉ごと取巻いていた。それは寧ろ堅固な箱で、どうして開くものやら分らなかった。その厨子に対して、蝋燭が二本ともされ、香が焚かれていた。
照顕さまの神子は、四十とも五十とも年令の見分けのつかない女で、細面で色が白く、眼を半眼に開いているというより細めているという感じの、無表情な蝋細工のような顔だった。髪を生え際はすっきりと鬢は大きくふくらまして取りあげ、紫紺色の着物に同じ色の袴をはいていた。同じような服装で髪をおさげにした童女が一人、室の下手の隅に控えていた。――他にも一人、屈強な男がついて来たが、これは自動車の中に運転手と共に居残って、決して座敷へは通らないそうだった。
美春さんが室の中央に坐っていた。痩せた小柄な女で、病中だと思わせるほど髪の艶がなく、その代りに眼が光り、へんに口が尖って見えた。ずっと下って、身体の不自由らしい白髪の老人がいた。近所の人らしかった。
秦と千枝子とは襖ぎわに控えた。
神子は香を焚いた。
暫く沈黙のあとで、彼女は向き返って言った。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
澄んで冴えた美声だった。一息おいて、彼女はまた繰り返した。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
彼女はまた香を焚いた。口から外へ殆んど洩れない声で何か誦した。それが非常に長い時間だと思える頃、卓上に置かれてる如意を取って向き返り、千枝子の前に来た。
「初めてのお方のようでありますが、如意を預かれますか。」
「はい。」と千枝子は躊躇なく答えた。
そして彼女は如意を受取り、それを礼拝して、神子に返した。神子は頷いた。――私があとで聞いたところによれば、この如意拝受のことを千枝子は知らなかったが、とっさに、ごく自然にやってのけたそうである。
神子は秦の前に来た。秦は千枝子のしぐさを真似て、その通りにやった。ただ、拝受の折に、鋭くその品物を見調べた。
神子は席に戻って、読経をはじめた。もう澄んだ美声ではなく、力のこもった太い声で、それが次第に女声から男声へと変っていった。その読経は、経典なしの真の暗誦だった。経文は普通に使用される三部経のいずれでもなく、華厳経の一部だった。
童女は膝に手を置いて眼をつぶり、美春も老人も胸もとに合掌して眼を閉じていた。
秦は腹部に両手先を組んで、細目を開いていた。然し眼につくものは何もなく、先刻の如意が眼の底に残っていた。それは竹で拵えたもので、先端の雲形の代りに、小さな宝珠の群彫があった。恐らくは如意宝珠を意味したものであろうか。柄は短く、一尺ほどで、文字が彫りつけてあった。「随処作主、立処皆真」というその二句は、臨済録の真諦をなすものであって、それがへんに秦の心にかかった。彼はそこに思念を向けて、そして眼をつぶりかけた。
その頃から、異変が起りかけた。美春がややもすれば腹匐いになりそうだった。合掌した手先を高く挙げると共に、上体を前に屈めて畳とすれすれになり、手先から腰へかけて、ゆるい蠕動をはじめた。神子はただ合掌して読経していたが、ちらと、美春の方を振り向いた。即時に、美春は普通の姿勢に返った。がやがて、美春はまた上体を屈めて、蠕動しはじめた。神子はちらと振り向いた。美春は元の姿勢に返った。それからまた、蠕動をはじめた。――それが幾度か繰り返された。恰も、神子は背後のことをも見通しで、美春の姿態を戒めてるかのようであり、美春は神子の視線を恐れながらも、蠕動に引き入れられるかのようであった。
遂に、美春は合掌を解いて畳に伏し、両手から両膝へかけて蠕動した。その状がまさしく蛭のようであった。その瞬間、神子は卓上の如意を取って振り向きざま、美春にさしつけた。その威にぴたりと押えられて、美春はもう身動きもならなかった。
神子はやはり細目ながら、眼尻をつりあげ、血の気の引いた蒼白な顔になっていた。立膝で少しくにじり寄って、更にぴたりと美春を押えた。そして威圧的な低声で言った。
「また来おったな。退散を命じたに、また来おったな。そこ動かずに、望みあらばいえ、何なりと言え。」
美春は無言で伏していた。
「不埓な。再び来ることならぬ。退散せよ。」
美春はぐったりと畳に伏したきりであった。
神子は如意を引いて、元の風に戻り、読経を続けた。美春は静かに身を起して、合掌の姿勢に戻った。読経の声はひとしきり高くなった。
そのまま時がたって、やがて、読経が突然にやんだ。神子はしばし黙祷して、それから徐ろに向き返り、軽く会釈した。美春と老人とは頭を畳までさげた。秦と千枝子も礼をした。
神子はもう無表情な顔に返っていた。何事も起らなかったかのように、無言のまま香を焚き、少しく座をしざって、それからハンカチで額を拭いた。汗を出してるようだった。
童女が立ってゆき、彼女と共に、西浦夫妻がつつましくはいってきた。そして一同は席を近づけた。美春は眼を開く力もなさそうに閉じがちで、息もひそめてるかのようだった。そして待ち構えていたかのように、茶菓が出された。その一座の乱れの隙に、秦は辞し去った。
「五郎」の二階に戻ってきた秦は、なにか深く考えこんでいた。波多野と私はもうだいぶ酔っていたが、彼もその仲間に早く加わりたがってるかのように、ウイスキーのグラスを取りあげた。
彼は私たちの問いには答えず、妙なことを波多野に尋ねた。
「君は金を一包み届けたが、あれに、名前を書いたか。僕の名前を書いたか。」
波多野は眼を丸くした。
「照顕さまのことか。勿論、書かないよ。君の名前も書かないよ。」
「それはよかった。」
そして秦はたて続けに酒を飲んで、言った。
「あれは、結局、精神的なものでなく、神経的なものだ。神経にすぎない。そ
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