「今晩は、僕はこれで失礼するよ。君達はゆっくりしていってくれ。大田にそういっておくから。」
 それから後は千枝子を顧みた。
「さあ行きましょう。」
 二人はあわただしく出て行った。外は月夜だった。――彼等はそれから、自宅まで三キロほどの道を歩いていったらしい。
 彼等が出て行くと秦はふいに言い出した。
「似ている。なんだか似ている。」
「何が似ているんだい。」
 秦は遠いことを考えるような調子で、ぽつりと言った。
「柳丹永。」
 魚住千枝子が柳丹永に似ているかどうか、そんなことは別として、柳丹永のことが夢の中のように私の頭に浮んだ。――彼女は嘗て上海で、秦啓源の愛人だった。殆んど無意識のうちに、日常、霊界と感応して、特殊なことを予見する能力を持っていた。そして精神が燃えつきるような工合に、突然、静かに死んでいった。私は彼女について、ほかで述べたことがあるから、茲には省略しよう。
 ところで、私の見るところでは、魚住千枝子と柳丹永は似ていなかった。霊界に関することは別としても、性格や容貌も似ていなかった。ただ、頬の薄い皮膚の緊張のさまだけが、そっくりであった。その一点だけが、今、どうし
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