合がわるかろう。」
そして彼等は、薄暗い狭い階段をのぼって、二階の室におちつき、そこで、簡単な夕食をすませて、碁など打ちはじめた。
ところで、この二階は、六畳と長四畳との二間続きになっていたのが、階下の酒場とは別種のもので、その建物全部の所有主となってる波多野洋介の、謂わば私室だった。まだごく簡素な調度品が備えてあるきりで、どうにか書斎とも応接室ともつかない恰好だけを持っていた。だがここで、実はいろいろなことが行われたのである。――その一例として、この物語に関係のあることを述べれば、片隅の卓子の上の瓶に、数匹の蛭が泳いでいた。建物の反対側、つまり表側に、刳貫細工物問屋の一家が住んでいて、そこの肥満した主婦が、肩の欝血の凝りをなおすために、昔風な蛭療治をしていた、その蛭の幾匹かを貰ってきたのである。
この下等な吸血虫は、甚だ根強い生命力を持っていて、飢餓状態に放置されれば、その体積が十分の一ほどにまで萎縮するが、それでもまだ生きている。そのため、いろいろな実験に使われる。――そういうことが話題になった時、秦啓源は更に変なことを言い出した。――蛭を太陽の光りにあてて乾しておけば、すっかり乾燥して、鉛筆の芯みたいになる。鉛筆の芯と同じく、ぽきりと折れるようになる。そいつを、水につけておくと、自然と元に戻って、また、ひらひらと水に泳ぐ。折れたのはだめだが、折れさえしなければ生き返る。
それはちと信じ難いことだった。盆石の苔などは、すっかり乾燥させ、布にくるみ、箱に納め、数年間放置した後、取り出して水をやれば、一夜にしてまた青々と蘇るけれども、鉛筆の芯になった蛭などは……。然し、本当だと、秦は主張した。それならば実験してみようということになった。
皿の上に蛭をつまみ出し、水気を拭き取って、硝子戸越しにさしてくる秋の陽にあてた。昼間は暇な大田梧郎がその仕事に当った。だが、蛭はいつまでも水分を含んでいて、ぽきりと折れるほどにはならなかった。夏の炎天はもうとくに過ぎ去っているし、まさか火にあぶるわけにもゆかず……蛭は捨てられることになってしまった。
その蛭の室で、秦と波多野との碁がまだ一局も終らないうちに、魚住千枝子がやって来た。小児のようなひそかな跫音で階段をのぼってきた彼女は、黒い繻子のコートを袖だたみにしてハンドバックの上に持ちそえ、廊下に膝をついて挨拶をした。大島の着物に縫紋の羽織を重ねたじみな姿に、薄桃色の半襟がくっきりと目立っていた。
波多野はなんだかあわてた様子で、碁盤をはなれて中腰まで立ち上ったが、火鉢にくっついて坐ると、千枝子をそこに招いた。彼女はすり足で席に進んだ。へんに皮膚の薄い頬が緊張して微笑の影さえ示さず、眼はじっと火鉢の中に落されていた。そしてふいに言った。
「後れましたのでしょうか。」
「いや、まだでしょう、何ともいってこないから……。」
それから波多野は、彼女を今夜の同席者として秦に紹介した。
秦はぎごちないお辞儀をした。
「僕は……一向に、馴れませんから、よろしく願います。」
「わたくしこそ、どうぞよろしくお願い致します。」
彼女はちらっと眼を挙げただけだったが、秦は少しくぶしつけなほど彼女を見守った。それから、打ちかけの碁盤に眼をやり、室内を眺めたが、立ち上ってゆき隅っこの卓上の蛭の瓶を取りあげ、ちょっとためらった。
「どうするんだい。」と波多野が尋ねた。
「こんなもの……どこか……。」
瓶を隠すようにして、更に隠し場所を求めていた。
「それも、もう用はあるまい。捨ててしまおうか。」
「何でございますの。」
千枝子は、波多野が受取った瓶を更に受取って、その中の蛭を眺めた。
「これ、どうなさいましたの。」
「あちらのお上さんが、肩の欝血を吸わせていたのを、ちょっと、貰ってきたんです。」
千枝子は何とも言わずに、そして別に嫌気も示さずに、瓶の中の蛭をじっと眺めた。ただふしぎそうに眺めた。
その瓶を、波多野は奪うように取上げて、階下へおりてゆき、またすぐあがってきた。――その蛭がどうなったかは明かでないが、恐らく、大田梧郎が瓶のまま堀割にでも捨ててしまったのであろう。
沈黙が続いたあとで、千枝子はごく自然に言いだした。
「あちらの、美春さんとか仰言る方、蛭の姿におなりなさるということですけれど、ほんとうでしょうか。」
波多野と秦は顔を見合せ、次に千枝子を眺めた。
「大田さんは、ほんとうだろうといって、笑っていらっしゃいましたけど……。」
大田から聞いたのだとすれば、彼女もくわしく知っているに違いなかった。
美春さんというのは、刳貫細工物問屋の主婦の妹で、四十歳をすぎた小柄な女だった。嘗て結婚したこともあるが不縁になり、子供もなく再婚の意志もなく、姉のもとに身を寄せて、そのまま、
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