年月を過してしまった。――その美春さんが、夏の頃から、一種の幻覚に襲われはじめたらしい。夜中にふと気がついてみると、或は、障子を細目にあけて、或は襖を細目にあけて、誰かがじっと覗いているのである。驚いて、蒲団の上に身を起すと、障子や襖はもうしまっていて、誰もいない。そんなことがしばしば起って、遂には、じっと覗きこんでくるその顔が、蚊帳のところまでやって来た。蚊帳がこちらへふくらむほど、その怪しい顔がのりだしてくる。もう身を起すことも出来なくて、蒲団をかぶり、息をひそめていると、いつしか顔は消えてしまう。その顔立ははっきり分らないが、確かに誰か人の顔なのである。彼女は夜灯をつけず真暗な中に寝る習慣だったが、真暗な中にありありと、その人の顔だけは分り、それが消えてしまったあとの暗闇は、いっそう恐ろしかった。後にはそれが毎夜のようになって、おちおち眠られず、次第に心気が衰えてきた。
主人の西浦辰吉夫妻も、美春のことを心配しだした。そして辰吉の懇意な者に、照顕さまを信仰してるのがいて、一度ためしに祈祷して貰ったらどうかと勧めた。照顕さまというのは、新しく出現したもので、祈祷の秘義は仏教に依るものらしく、本体は神霊らしいが、そこのところは神秘の奥に閉ざされている。戦争後たいへん信者がふえ、霊験あらたかだとのことだった。その照顕さまに、辰吉は頼むことになった。そして祈祷をして貰ったところが、美春は蛭の本体を現わしたそうで、それを祓い落してもらってから、彼女の夜の悩みは遠のいたらしい。
西浦夫妻は照顕さまの信者になった。そして美春はまだすっかり恢復していないので、なお一回の祈祷が行われ、更にもう一回行われることになったのである。
西浦の妻が時折、蛭に欝血を吸わせているから、美春が蛭の本体を現わしたのも不思議ではないと、大田梧郎は簡単に解釈した。然し、それだけでは片付けられないものがあった。この種の事柄がいつもそうであるように、話だけでは真相は掴めなかった。
この美春の一件は、吾々の中でもごく少数の者しか知らなかった。ただの話題とするには、あまりにばかばかしかったか、或はあまりに奇怪だった。秦啓源は最も深い関心を持ち、波多野を通じて、次回の祈祷に列席することの許しを得た。ところが前日になって、魚住千枝子が同じ許しを得てることが分った。西浦夫妻にとっては、信仰に垣根はなく、二人の願いを殊勝なものと見たらしい。但し、祈祷の現場には、彼等夫妻も遠慮して同席しなかったほどだから、ただ照顕さまの思召しに依って……という条件がついていた。
魚住千枝子がやって来ることを、波多野はへんに気にしていた。大田を通じて西浦夫妻に話がなされたというそのことではなく、照顕さまと彼女とを結びつけることに、なにか危惧めいた思いがあったらしい。
「女が出るべきところではないんだが……。」と彼は私に囁いた。
そしてその夜、七時頃であったろうか、照顕さまからお許しがありましたから……と西浦からの伝言があった時、波多野は眉根に深い皺を寄せたが、次には甚だしく冷淡な態度を取った。
「僕はここで酒を飲んでるから、君たち、ゆっくり行ってきたまえ。」
そして彼は大田を呼んで、蟹と酒をたのんだ。
其処から西浦一家の住居の方へ行くには、廊下からの通路が板戸で閉鎖されているので、階下へおりて、料理場裏の狭い非常口を通らなければならなかった。
魚住千枝子が先にたち、秦啓源があとに随い、大田に案内されて行くと、すぐに二階の奥座敷へ通された。
祈祷の用意は出来ていた。
意外なほど簡単な仕度だった。紫檀の大きな卓上に、白木の小机が置かれていて、それが白布で覆われ、白布の上に金襴を敷いて、黒塗りの厨子が安置されていた。厨子の両扉は閉ざされたままで、なおその上、五つの丈夫な真鍮の帯が扉ごと取巻いていた。それは寧ろ堅固な箱で、どうして開くものやら分らなかった。その厨子に対して、蝋燭が二本ともされ、香が焚かれていた。
照顕さまの神子は、四十とも五十とも年令の見分けのつかない女で、細面で色が白く、眼を半眼に開いているというより細めているという感じの、無表情な蝋細工のような顔だった。髪を生え際はすっきりと鬢は大きくふくらまして取りあげ、紫紺色の着物に同じ色の袴をはいていた。同じような服装で髪をおさげにした童女が一人、室の下手の隅に控えていた。――他にも一人、屈強な男がついて来たが、これは自動車の中に運転手と共に居残って、決して座敷へは通らないそうだった。
美春さんが室の中央に坐っていた。痩せた小柄な女で、病中だと思わせるほど髪の艶がなく、その代りに眼が光り、へんに口が尖って見えた。ずっと下って、身体の不自由らしい白髪の老人がいた。近所の人らしかった。
秦と千枝子とは襖ぎわに控えた。
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